Courtesey of Terry Goodyer
深夜、詩篇16篇を読んでいて、そう言えば、箴言3:6にある「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」が、昔は、何度読んでも、考えても、意味がわからなかったな、ということを思い出した。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
箴言3:6
私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。
私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
詩篇16:7-8
あれは、召命を受ける前。2015年か2016年の頃だと思う。ある方と、主イエス・キリストにあって、聖書を読んで、神の道を歩んでいくということについて話していて、箴言3:6が出てきた。
ああ、そうか。「あなたの行く所どこにおいても、主を認め」ればいい訳か。「主」が、私の道をまっすぐにして下さるのか。わかったようで、わからないような。納得はするけれども、理解しているという実感が全く湧かない。
「自分が行くところ、どこにおいても、「主」を認める」とは、どういうことか?
当時は、わからなかった。わかりようがなかった。
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当時は、この投稿で説明した、旧約聖書の「主」と、新約聖書の「主」が、なぜ同じ漢字「主」で記されていて、なぜ、ごちゃごちゃになっているのか、ということの歴史的背景もわからなかった。
それ以前に、「天の父」が、漠然としていた。当時、広い意味でプロテスタント教会として括ることのできる教会 -- 過去17年の間に自分が通った3つの教会のうちの3つめ -- にいたが、その10数年の間、どの教会でも、「天の父」がどのような方であるのか、説明を聞いたことがなかった。私は、仕事で行けない時以外は、ほとんど毎週、教会の日曜礼拝に参加していたから、かれこれ数百回は、教会の牧師の説教を聞いていたことになる。その間、「天の父」について、どの牧師からも教えられたことはなかったし、バイブルスタディ的な時間の時にも、そのことについて取り扱われることはなかった。
これは、皆、「天の父を知らない」ということを意味していると思う。
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三位一体の”神"。父と子と聖霊とは三つにして一つの"神"であるという神学を根底に持っていると、天の父がわからなくなる。イスラエルの神がわからなくなる。
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私は、2017年9月に、偶然であったカナダのJosef Jasinskiという牧師から、悪霊の追い出しのイロハを教わる格好になって、それ以来、悪霊の追い出しに取り組んできている。
悪霊は、その人の信仰を見るので、その人の信仰が聖書に完全に基づいたものになっていないと、悪霊は、ビクともしない。
それを経験によって学んだ。
だから、イエス様の最終説教であるヨハネ14章〜17章の内容についても、本当に、字句通り理解しようとしたし、それを信仰として持つようにした。
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従来の教会が踏み込まない旧約聖書と、新約聖書の間にある…ように思える…その実、人工的な"神"・三位一体があるがゆえに真実がわからなくなっている…断絶の問題についても、英文資料を調べて歩くことによって、事情が飲み込めてくる(以下の投稿を参照)。
日曜投稿:神の名。なぜ「イエスの名」によって祈るのか?
https://ameblo.jp/sasuke-memo2/entry-12530734598.html
旧約聖書の「主」と新約聖書の「主」が混同されている歴史的な背景がわかると、霧が晴れたように、旧約聖書と新約聖書の断絶が、断絶ではなくなって、イスラエルの神がご自身の民であるイスラエルをこの世から救い出すストーリーが旧約聖書と新約聖書を貫いているのだということが、はっきりと見えてくる。
イスラエルの神が新約聖書の「天の父」なのだということが、明確にわかると、途端に、聖書全巻がはっきりと理解できてくる。
(そのための大前提として、三位一体の”神”の偶像を破壊する必要がある。士師記6章参照)
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こうした、お手本のない道を、試行錯誤を繰り返しながら、歩いてきて、悪霊の追い出しをしながら、「イエスの名」を用いて信仰の言葉を自分の口から出すことの意味を経験的に理解しながら、また同じ名によって霊的な戦いをすることで何がどう変化するのかを経験的に理解しながら、歩いてきてみると、箴言3:6が鮮明に理解できる。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
箴言3:6
そうだ、そういうことなのだ。
この、「主」は、原典の表記では"YHWH"の神であられる方で、アブラハムに現れた神、モーセに現れた神、イスラエルの神。このイスラエルの神が、御子であるイエスによって「天の父」という、新しい様相を帯びる(新しい契約により。福音により)。その「天の父」に、異邦人である我々も、イエス・キリストを信じる信仰により、また、いただいている聖霊によって「子」としていただける。
自分が進む全ての道において、主イエス・キリストの名によって、天の父をまことの神として認める。どこに行くにも、本当の神であられる天の父が、御子イエスのゆえに、自分の父となって下さる。この方は、全知全能、天地万物を創造したまいし神であるから、ありとあらゆるものに、御子イエスの力強い言葉によって、働いておられる。全てに満ち満ちている。被造物の全てがこの方の創造によるものである。
人間一人一人もこの方によらずできた方はいない。イスラム教徒であれヒンズー教徒であれ、高野山の僧侶や比叡山の密教を修する僧侶であれ、全てがこのイスラエルの神によって創造されている。(しかし、それがわからない。気づかない。霊どもの働きによる)
そうした方。唯一の神。イエス・キリストが唯一のまことの神と呼んだ方。
この方を、自分が行く道の全てにおいて認めれば、全てにおいて、恵みや祝福があふれるのだ。それが、毎日の生活の中で、はっきりと理解できる。
神は生きておられる。まさにその通り。したがって、どこに行くにも、この方を認めるようにすれば、自分の道はまっすぐになる。
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もちろん私は、現在、Twitterで色々に書く人がいることを存じています。
たとえ、そういうことがあっても、その書いている方、お一方、当教会と、ある個人的な経緯があって、そのようなことを思うようになられた方。この方についても、創造主であられる天の父のご計画があり、想いがあられる。
そういう方によって色々に書かれていることをも含めて、全てが、聖書に書いてある通りに展開している。(2010年の私の言動は真実であり、それは消せないということも含めて)