Courtesy of Pedro Szekely
三位一体の教会群にいると、絶対に経験できないこととして「神が、そばに、おられる」という感覚、というより、「神に造られた被造物である人間として、創造なさった方が、ごく、近くにいらっしゃる」という自覚、直覚、理解、納得、経験的理解、理解を伴う感覚…。きわめて言い表すのが難しい感覚です。そうした感覚を、本当の本当に、聖書に書かれているままに、主イエス・キリストを信じて、本当に本当の真正な聖霊が下り、そこに、本当に本当のキリスト教会である初代教会とまったく同じ -- 霊的に同じという意味です -- キリスト教会が回復して、そこで、聖書に記されている様々なことが成就し始めると、そうした感覚を、しばしば、味わうことができるようになります。これは大変に不思議な感覚です。
天の父が、おそばにおられる、という感覚。
例えば、朝、目覚めた時に、すでに、そこにいらっしゃいます。
非常に、不思議な存在感で、そこに、おられる。
「わたしはある」という方です(出エジプト3:14)。
この感覚は、一部の進歩的な会派で行なっている、聖霊に導かれるタイプの賛美礼拝(スポンテニアスワーシップ)で感じられる「臨在」とは、似ているようで、似ていないです。
賛美礼拝でしばしば会堂にあふれる「臨在」は、どちらかと言うと、感覚的なものです。今だから、識別できます。あれは、「臨在として感覚できる感覚」であり、ペテロが御子イエスを「生ける神の御子」と信仰告白した時に、彼がユダヤ人として持っていた天の父に関する認識「生ける神」(マタイ16:16)。その「生ける神」が「生きて、そこにおられる」「生きて、ここにおられる」という感覚と、スポンテニアスワーシップで得られる「臨在」の感覚とは、やはり、まったく別物と言ってよい感覚です。
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スポンテニアスワーシップに取り組む教会のほぼすべては、偶像である三位一体を否定し、破壊し尽くして、三位一体の外に出ていませんから、依然として、偶像の神の支配下にあります。
パウロが言うように「偶像の神」と言う「神」がいる訳ではなく(第一コリント8:4)、なぜならは「神はお一方」ですから、偶像の神はつまる所、ルシファーと一緒に天から落ちた御使いのどれかが、固有名詞を持って崇拝されるようになった、元御使い。つまり「霊」。神の霊ではない霊。聖霊ではない霊。すなわちサタン。ないしは下位にいる悪霊です。
そうしたサタンないし悪霊から来ているのが「臨在」だと、現在の私は、三位一体の教会群の霊的な図式がよくわかってきたので(歴史もそれなりに調べました。天の父から教えられもしました)、そのように結論づけます。なので、「臨在」ばかり求めるキリスト教会は、「臨在」がまた新たな偶像となって、「臨在崇拝キリスト教会」のようになっていきます。
そのように根本に偶像崇拝があるキリスト教会では(言い換えれば、三位一体のキリスト教会群は)、幾重にも、偶像が折り重なっているという霊的な図式があります。
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天の父が、御子イエスと一緒に、その人のところにやってきて「住む」という教えは、ヨハネの福音書にあります。それが、そのように、起こるのです。
聖書の記述を侮ってはいけません。人間の理解の制約によって、言い換えれば、自分が理解できないからといって、聖書の記述を、自分の理解できるように捻じ曲げて、矮小化してはならないです。また、神学であれ聖書解釈の歴史的な積み重ねであれ、何であれ、人間の頭脳から発したもので、神の言葉を…汚してはならないです。
神の言葉は、神から出ている言葉です。「神」がわかりますか?
創世記を読んで、神がすべてをお造りになったことを、信じていますか?
その「神」について、イエス・キリストが証しをし、初代教会がそうした「神の言葉」を宣べ伝えていたのです。
そうした、生ける神の、生きた言葉についてご説明しています。
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イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
ヨハネ14:23
この聖句は、文字通り、小学校1年生でも理解できるように、素直に理解すべきです。
1. 誰でも、
2. イエス・キリストを愛する人は、
3. イエス・キリストの言葉を守る。
4. そうすれば、天の父に愛される。
5. そうして、天の父と主イエス・キリストは、
6. その人の所にやってきて、
7. 一緒に住む。
このことが、成就するのです。聖書に書いてある通りに信じて、聖書に書いてある通りに行って、聖書に書いてある通りの、初代教会的な教会活動を行う、すなわち、互いに愛し合い、互いに足を洗い合い、互いに罪を言い表し、互いに祈り合うことによって。
神の国とは、生ける神であられるイスラエルの神、すなわち、主イエス・キリストを信じることによって、その人の父となった天の父が、御子であるイエス・キリストが執り成して下さって、イエス・キリストの名で祈ったこと/行ったこと/信じたこと/預言したことが、神であられる天の父の御業として起こる国のことです。そうした領域であり、地域であり、都道府県であり、日本国です。
そこに、イスラエルの神が、おられるのです。生きて働かれているのです。イスラエルの神は、旧約聖書で何度も言われているように、生ける神です。
その、生ける神が、信じた人のすぐそばにいらっしゃって、一緒に、生きて下さるのです。十字架にかけてられて死んで下さった御子イエスを信じる信仰のゆえに。
死んで三日目によみがえって下さった御子イエスを信じる信仰のゆえに。
すべてに勝る名である御子イエスの名のゆえに。