私たちの教会は勧誘しません。むしろ… | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Damian Gadal

 

 

私たちの教会では、勧誘はしません。むしろ、信仰が等しい方ではないと判断された場合には、ジョインすることをお断りします。

これは、聖書に照らして、非常に大事なことなので、整理して書いておきたいと思います。



一般的なキリスト教会では、来るものを拒まず、来られる方に聖書の教育を施し、毎週日曜礼拝に通う姿勢が確認できたなら、日を決めて、信仰告白をしてもらい、水のバプテスマを授けます。

これだとダメなんです。

エペソ1:4や第一ヨハネ1:2にはっきりと書かれている「神の選び」を無視して、神がお選びになっていない方に水のバプテスマを授けてしまい、教会員としてしまう間違いを犯すことになりかねません。

この場合の「神」とは、前後関係から「天の父」です。パウロにとってもヨハネにとっても、ペテロにとってもヤコブにとっても、彼らはユダヤ教の教育を子供の頃から受けた人々ですから、「神」と言えば「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であり、一言で言えば「イスラエルの神」です。そのイスラエルの神を「天の父」と呼ぶ -- それはすなわち、御子であられるナザレのイエスがイスラエルの神を「天の父」であると紹介されたことを踏襲しています。

エペソ1:4や第一ペテロ1:2に書かれている神の選びは、天の父による選びです。

天の父=イスラエルの神は、ご自身がお救いになる人を選ぶ神なのです。
これは、エサウを退け、ヤコブをお選びになったことに、その典型的なパターンがはっきりと表れています。

イシュマエルを退け、イサクをご自身の民として立てる。そういう方です。


ヨハネの福音書に、主イエス・キリストが弟子たちに対して「聖別して下さい」と天の父に祈っているところがありますが(ヨハネ17:17)、「聖別する」とは、神を神とも思わない人達から、ご自身の民を選んで分けて、ご自身の聖なる領域に引き移す -- それはあたかも出エジプトのように -- そういうことです。

ご自身が選ばれた民を愛されるのです。


ご自身が選ばれた民に、イエス・キリストの救いを示し、色々な人生経験をさせながら、その人を、イエス・キリストに似るように育てあてげいく。それが天の父です。
ヨハネ15章にあるように、農夫のように、実を結ぶ枝を整えられる方です。一方で、実を結ばない枝を、切って捨ててしまわれる方でもあります。

神にえこひいきはありません。
公平な方です。

しかし一方で、旧約聖書にも新約聖書にも、全巻を通じて書き記されているように、ご自身の民を選ぶ方なのです。



イエス・キリストの下に連れて来られる人は天の父に連れて来られる、ということがヨハネ福音書で主イエスの口から語られています。
天の父が、引き寄せない限り、主イエス・キリストの下に来ることはできません。

 

わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。

ヨハネ6:44:45

そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』と言ったのです。」
ヨハネ6:65

 

ここは、非常に大事な所で、恣意的にごまかして読んだり、人間的な聖書解釈により、真理を曲げてはなりません。

 

天の父の選び基づく御子イエスの執り成しが、福音の本質です。


人間が、自分の発意によって、聖書をよく読んで、イエス・キリストの救いにあずかろうとしても、仮に、エペソ1:4や第一ペテロ1:2に書かれているように、天の父から天地創造の前に主イエス・キリストに似るように選ばれている人でなければ、イエス・キリストを真の意味で知ることはできないし、本当に信じるということができません。

私はこのことを、昨年半ばから三位一体の教義に疑問を持つようになり(それまでは三位一体が絶対だと信じて疑いませんでした)、天の父に「三位一体のどこが間違いなのか?」について何度か教えられながら、聖書に照らして理解し、こちらの教会の歩みを軌道修正していく中で、ああそうかと。同じ信仰を持つ人しか、この教会ではやっていけないのだと、理解するようになりました。



主イエスと食事をする教会で回復した初代教会は、実に、千数百年ぶりに回復した初代教会であり、それまでの三位一体の下にあるキリスト教会群とは、まったく違う歩みをしています。それは、使徒の働きに書かれたままの教会であり、異邦人に対する福音を任されたパウロが、複数の書簡ではっきりと書いている事柄を全て守り切っている教会です。聖書に書いていることと、妥協することはありません。全てが神の言葉として尊重され、全てを信仰によって、神の言葉として、成就することを見る教会です。

悪霊の追い出しももちろんやります。エペソ6章の霊の戦いも、ほぼ毎日のように行います。

本当の聖霊が下っていますから、信徒には、第一コリント12章の御霊の賜物が現れています。預言もあります。知識の言葉もあります。癒しも起こります。奇蹟も起こります。

これまで、小職が三位一体の教会にいた10数年間には経験したことのなかった、「生ける神」であり、「愛の神」であられる天の父の絶大なる御業を経験します。ほとんど毎日です。それが、御子でありメシア(The Annointed、油注がれた方、王の王)である主イエス・キリストの執り成しによって起こるのです。



同じ信仰を持つ人でないと、一緒にやっていけないのだということが、この1年半の間によくわかってきました。

なにせ、381年のコンスタンティノープル公会議(三位一体の教義が成立。集まった司教数百名の多数決によって決定した)以降、千六百年に渡ってキリスト教会群を三位一体の人工的な神が支配してきた訳ですから、そこに、初代教会の本当の信仰の姿はありようがありません。誰も、本当の、主イエス・キリストを信じる信仰を知らない。本当に主イエス・キリストを信じる信仰があれば、イスラエルの神であられる天の父が毎日のように御業をなさるのだということを知らない。本当の聖霊が働けば、その人がどう変えられるのかがわからない。(聖霊の働きは、携挙を望む人々にあるような熱狂とは、全く異なります。リバイバル主義者が期待している集団的な熱狂とも、一切異なります)。

今、この時代に、回復された初代教会の道を歩むということは、お手本のない道を歩むということでもあります。実に千数百年にわたって、三位一体の下にあるキリスト教会群は「父と子と聖霊とが三つにして一つ」という、物言わぬ神、偶像を神として信奉してきた。だから祈りがかなえられることがない。だから癒しも起こらないし、罪責感は消えない。だから仕事における祝福がない。

三位一体の神を捨て -- と言うより徹底的に破壊しまくり -- 聖書に書かれているままを信じ、聖書に書かれているままを行うと、そこに、使徒の働きに記されているのとまったく同じ初代教会が復活します。

また、そこでは、主イエス・キリストが教えるように「先生」と呼ばれる人はおらず、高い所から説教を垂れる人はいません。互いがフラットな兄弟姉妹の関係で -- それは主イエス・キリストの教えを忠実に守ることです -- 互いに愛し合い、互いに足を洗い合うということを行います。互いに足を洗い合うとは、ヨハネ13章の前後関係から、互いの罪を互いに取り扱う、互いに執り成すということです。

 

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

マタイ18:20

 

そうしたことも含めて、聖書に記されているままのキリスト教会を運営します。



そこに、信仰が等しくない人がやってくると、混乱が起こります。

以前は、悪霊の追い出しについても、相談に来られる方には、週1時間、曜日と時間を決めて、お話をさせていただくということをしていました。

初代教会は千数百年の間、ある意味、封印されていて、本当のキリスト教会の運営方法にはお手本がないということにご注意下さい。聖書のみが頼りであり、天の父と主イエス・キリストの指導のみが道となり、聖霊が助けてくれます。

悪霊の問題をお持ちの方に色々と相談をさせていただくと、悪霊の追い出しがうまくいかない方がいるのだ、ということがわかってきます。これも、すべてのキリスト教会が、新約聖書が教えるままに、ごく普通に悪霊の追い出しに取り組んでいるのならば、一般的な教会がすべて共有する経験則としてわかることです。当たり前の知見になることです。しかし、そうした教会がほとんどないことから、この知見は共有されていません。悪霊の追い出しは、すべての人にできることではなく、悪霊が追い出されない人もいるのです。それは、上述の神の選びに関わっています。


悪霊の追い出しがうまくいかない方は、簡単に言うと、イエス・キリストを信じる信仰が、ありません。それは、聖書に照らして、聖書が語るままの、イエス・キリストを信じる信仰がない、ということです。


受験勉強のように知識として、情報として、イエス・キリストを知っているだけでは足りません。聖書に照らせば、イエス・キリストを信じる人には、相応のしるしが伴います。

また、第一ヨハネに書かれているように、神から出た人は、神から出た人の言葉に耳を傾けます。神から出ていない人とは、話が合いません。信仰に関する話で、一致がないのです。

 

私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます
第一ヨハネ4:6

このことが、だんだんとわかってきました。なにせ、初代教会が回復されたキリスト教会は、海外を含めキリスト教のワールドを色々と見渡してみても、お手本がないのです。これまで進歩的とされてきた各会派も、三位一体を捨て、三位一体の嘘の神を破壊しまくるということがないがために、偶像の下にいることに固有の、不活発や呪いがあります。個人崇拝があったり、偽りの預言が横行しています。

お手本がない中で、だんだんとわかってきたのは、エペソ1:4や第一ヨハネ1:2に書かれている、神に選ばれた方でないと、一緒にやっていけないのだという真実です。聖書に照らして、色々に証明することができます。

新約聖書には、神の召しについて書いてあります。召された者しか、主イエス・キリストを信じることはできません。

よって、召されていない方を、こちらの教会の中に招き入れ、信仰が違うことによる悲劇が起こるのを防ぐために、当教会では、誰かを勧誘するということを行いません。むしろ、信仰が違う方は、お断りします。先日も、ある男性を、お断りしたところです。

悪霊の追い出しについても、もう、どなたの相談にも応じるということはありません。以下の投稿にあるように、本当に、ハラを括って、イエス・キリストの弟子になるのだという覚悟がある方のみ、ご対応をするように、姿勢を改めました。

 

悪霊の追い出しアップデート(2) - 悪霊の追い出しを希望される方へ