Courtesy of Caitlin North
プロテスタント教会の中にいるうちは、絶対に経験できないことに「神に関する考えや思いが、他のクリスチャンと一致する」と言うことがあります。
プロテスタント教会群では、常に、聖書解釈はバラバラで、色々な解釈が可能。神学的な立場の違いもそこに関係してくると、議論は紛糾する。いつまで経っても正解がわからない。
往々にして喧嘩となる。議論となる。延々と議論は終わらない。最終的には教会を出ると言う所まで行く。また、新しい会派を作らないと収拾がつかないと言う所まで行く。そのようにして、永遠に「分派」が繰り返されて行きます。
パウロは「分派」を「肉」だと言っています。「肉の働き」であり、それは「聖霊から来るものではない」と言っているのです。
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
ガラテヤ5章
プロテスタント教会内に普遍的に認められる教義の議論、聖書解釈の対立、教会内の分裂、ひいては分派して新しい会派を形作る動きは、全て「肉」です。聖霊によるものではありません。結果として、プロテスタント教会全体に、数千に及ぶ諸会派が存在する状況になっています。米国の信頼度が高い調査機関であるPew Research Centerの調査によると、米国で認めることができる会派は300あまりに及んでいます。
これがプロテスタント教会群において、聖霊がいない状況で、肉の働きによって分派が繰り返された結果です。
○信仰を等しくする信徒同士で、神に関する考えや聖書の解釈が一致する
一方で、初代教会が回復して、聖書に書いてあるままの信仰が確立し、本当の聖霊が下ると、キリスト信徒(あえて「クリスチャン」と呼ばずに「キリスト信徒」と呼んでいます。両者を区別しています)同士の間では、神様のことを話題にする時に、しばしば、考えていることが一致する、ということを経験するようになります。これが、パウロが言う「御霊の一致」です。
平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。
エペソ4:3-6
これは、経験によってのみ、「ああ、そう言うことか」と理解できる事柄です。パウロは、聖霊のことは、聖霊によって理解すると言う意味のことを言っています。その通りなのです。聖霊をいただいて、聖霊によって経験させられて、「ああ、そう言うことか」とわかる。聖霊が下らないうちは、推測や論理によって理解しようとしても、皆目わからない。聖霊に関する事柄は、そう言うところがあります。
キリスト信徒同士で、御霊による一致があると、天の父に関して何かを言っても、御子イエスに関して何かを言っても、一致があります。聖書の解釈でも一致があるのです。