キリスト教会群が主イエスの最重要戒「互いに愛し合いなさい」を実践できない理由 | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル


Courtesy of Peter Neish

 

プロテスタント教会一般にある弊害として、聖句を引用しておしまい、ということがあります。

例えば、信仰によって義とされることについて。

すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
ローマ3:22

人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
ローマ3:28

聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。
ガラテヤ3:8

こうした聖句を引用して、信仰があれば、その人は、神の義とされるのだと教えます。

しかし、その実、本当の信仰とは何を言うのか。信仰がない人はどうすればいいのか。義とされることによって、何が起こるのか。例えば、神の国に入るのか。牧師は、義とせられて、どんな良いことがあったのか。牧師の子息は、牧師が義とせられたことによって、良く育っているのか。義とせられた教会員が複数集まっているその教会では、皆が幸せであるのか。皆が、主イエス・キリストの福音を享受していて、毎日、感謝して生きているのか。

そうした、実践を伴う側面になると、また、毎日の幸せに関わる側面になると、プロテスタント教会一般は、口をつぐみます。引用できる聖句がある場合には、引用するでしょう。しかし、引用どまりです。

プロテスタント教会一般の弊害は、どこまで行っても、聖句を引用するだけで、その先に、生ける神がいないと言うことに尽きます。生ける神がいないところでは、ペテロが「生ける神の御子」と証ししたイエス・キリストもいません。頭の中の知識としては、理解することはできても、「生ける神性」ないし「生ける神の御子性」を、体験として、受けることはできません。

なぜなら、神の言葉は生きているからです。何かの状況において、引用されるために存在しているのが神の言葉ではありません。


1)何かの状況において、
2)聖霊がそれに適合した聖句を教えてくれて、
3)それを信じて、
4)アクションを行う、
と言うのが、生きた神の言葉のあり方です。

1)〜4)までが全部揃って、神の言葉は、その本来の働きをするのです。つまり、そこに、全知全能の創造主であられる天の父の御業が、御子の名によって、働くのです。人知をはるかに超えた展開が起こります。これを、僭越ですが、私たちの教会では、毎日のように経験しています。

ヤコブ書では次のように教えています。ヤコブは初代教会の本部であるエルサレム教会で長老を務めた人です。当時の初代教会の総主教と言ってよい位置にいた人です。その彼がユダヤの12部族(すなわちユダヤ人全員)に向けて送った書簡の教えが以下です。異邦人がこの教えから外れると言うことは、ありえません。

みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。
自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。

ヤコブ1:23-24

人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。
ヤコブ2:24

私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
ヤコブ2:14

それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
ヤコブ2:17

 

聖書の聖句を行うことによって、信仰が完成するのです。具体的なアクションが伴うのです。

○「互いに愛し合いなさい」を引用するだけでは足りない

主イエス・キリストの教えの中で最も重要な教えが、あえて「新しい戒め」だと強調して教えておられる、「互いに愛し合いなさい」です。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

ヨハネ13:34-35

「新しい戒め」とは、もちろん、古い戒めである十戒や、モーセが記した律法を踏まえた言い方です。主イエスは、それらの律法の一点一画も廃れることはないと言っていますから、この「新しい戒め」は、古い戒めの上にあって、古い戒めを完成させる戒めだと捉えるのが賢明でしょう。

まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
マタイ5:18

この「互いに愛し合いなさい」も、上述したように、引用するだけではダメです。イエス・キリストを信じる人は、主イエス・キリストが全ての律法に勝る新しい戒めとして教えたこの教えを、主イエスの十字架の重みを持っている、真の戒めとして、毎日の生活の中で、「どうしたら、互いに愛し合いなさい」を守ることができるのか?自問自答しながら生きるべきです。そうして、実践の機会があるならば、素直に、イエス・キリストが教えたままに、実践すべきです。そうしないと、ヤコブ書に書かれているように、

みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。
自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。


となってしまいます。

○一般的なプロテスタント教会で「互いに愛し合いなさい」を実践しようとすると、無理だとわかる

この「互いに愛し合いなさい」は、弟子に向けられた教えです。キリストの弟子が守るべき最も重要な戒めです。隣近所で、この世の人を含めた関係性の中で、互いに愛し合いなさいと言っているのではありません。その証拠に、次のようにもおっしゃっています。

もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです
ヨハネ13:35

弟子に向けた戒めなのです。ですから、イエス・キリストを信じる人同士、と言うより、同じ信仰を持って、本当の意味で「教会」(エクレーシア、信じる者の集まり。この世から、天の父によって呼び出されて、御子イエスを信じるように促された者の集まり)を構成するキリスト信徒同士において、互いに愛し合いなさい、と言っているのです

これを実践するとはどう言うことでしょうか?
わかりますか?

一般的なプロテスタント教会で、この「互いに愛し合いなさい」を実践しようとすると、すぐに、「無理だ」と気づきます。

一般的なプロテスタント教会、ひいては、三位一体を掲げる全てのキリスト教会では、三位一体つまり西暦381年のニカイア・コンスタンティノポリス信条が成立した背景にある、知/ソフィアを愛するグノーシスの影響を色濃く受けていて、神学を司る人達が、教会の高い位に付いています。当時の司教(Bishop)、今のプロテスタント教会で言えば、牧師です。

牧師は、神に関する学問である神学を神学校で学び、4世紀のグノーシスの影響をそのまま受けて、特別な、神に関する知(ソフィア)を司る人として、教会の高い所から信徒を指導します。

この「高い所にある人」(司祭、牧師)。これが、キリスト教会をおかしくしています。4世紀のグノーシス教徒らが、そのような、非常に不健全な霊的な図式、福音を捻じ曲げる図式を埋め込んだのです。この、教会を捻じ曲げる概念の最下部に潜んでいる、神に敵対する者の悪意を正確に把握することができる人がいるとしたら、その人は、震え上がるでしょう。その悪意が、あまりに、悪魔的であるがゆえに。

この高い所にある牧師。この人がいるおかげで、その教会では、「互いに愛し合いなさい」と言う、主イエス・キリストが最も重要な戒めとして教えた教えを、実践することができないのです。

愛の対象の図式で言えば、知を愛する人、ソフィアを愛する人がいるがために、へりくだって、兄弟姉妹同士で互いに愛し合いなさいと言う、主イエス・キリストの教えを守ることが、どう逆立ちしてもできないのです。言い換えれば、神学という別な宗教が、キリスト教会を支配しているがゆえに、イエス・キリストの新しい戒めが、吹っ飛んでしまっているのです。

 

司祭や牧師は、知/ソフィアを愛する(ソフィアというのはグノーシスの神です)特別な教育を受けた人であるがゆえに、兄弟姉妹同士で互いに愛し合う愛になると、二律背反が起こります。

「神学ではこう教えている」。

「兄弟姉妹同士で愛し合う主イエスの戒めはある」。

「私は、高い所から降りて兄弟姉妹同士愛し合う中に入ることはできない」。

「私は神学校で神学を学んでいる」。

「私は牧師だ」。

「だから、兄弟姉妹同士愛し合う中には入れない…」。

となります。

 

○グノーシスと新プラトン主義の影響を受けた司教達は高い所にいる

神学は、インターネット上に無数に存在している英文資料によってその歴史を調べるなら、グノーシス教Gnosticismと、新プラトン主義Neoplatonismに源流があります。前者は、異教の神であるソフィア(知恵の神)を崇拝する、完全な異教です。また、パウロが、テモテにグノーシスを避けなさいと教えています(第一テモテ6:20)。

新プラトン主義は、Emanation(流出論)と言う、ある種の天地創造論によって世界の成り立ちを説明する神秘主義思想であり、創世記で記されているイスラエルの神の世界観、神理解とは全く異なる信仰、全く異なる神理解、全く異なる天地創造および人間の創造を信じている、これもまた異教です。

三位一体を作り上げ、神学の源流を醸成した4世紀当時の教父達司教達は、以下のような英文資料を調べてけば誰でも簡単にわかることですが、こうしたものの影響を色濃く受けていた人たちです。従って、彼らが練り上げたテキストである、原ニカイア信条にしても、三位一体の根底であるニカイア・コンスタンティノポリス信条にしても、よく読むなら、新プラトン主義的なEmanation流出論の影響を認めることができます。また、三位一体と言う、三つの神が一つであると言う考えからからして、新プラトン主義が根底にあると気づきます。曇りのない目線で、しっかりと真実を見通すなら、三位一体に虚偽があることを見抜けます。(全ての問いと答えに証拠聖句がある「ハイデルベルク信仰問答」において、三位一体のところだけ、証拠聖句がないという傍証もあります。)

 

 

 

 

 

Stanford Encyclopedia of Philosophy: 

History of Trinitarian Doctrines
https://plato.stanford.edu/entries/trinity/trinity-history.html

 

そうして、そのような神学的な結構を尊ぶのが、知恵の神であるソフィアが支配するグノーシスです。その影響を、三位一体を掲げる全ての教会の司祭達、牧師達が受けていて、手も足も、がんじがらめに縛られているのです。そこから、出ることができません。神学の奴隷です。

よって、「互いに愛し合いなさい」と言う、最重要戒が目の前にあっても、「高い所から降りてきて、信者と混じり合って、互いに愛し合うこと」ができないのです。異教の神ソフィアを愛する、別な宗教の信者であるがゆえに。

司祭が、牧師が、互いに愛し合いなさいを実践できない中で、どのように、下位にいる教会員が、互いに愛し合いなさいを実践できるでしょうか?

例えば、どこかの教会の熱心なクリスチャンが、「やはり、主イエス・キリストの『互いに愛し合いなさい』はものすごく重要だ。だから、私たちはこれを実践しよう!」と言って、その教会のクリスチャン有志が数名集まって、互いに愛し合いなさいと実践し始めたとすると、牧師が烈火のごとく怒って、「勝手な真似はするな!」と止めるでしょう。高い所にいる牧師、ソフィアを愛する別な宗教の信者である牧師からすれば、互いにへりくだって、主イエス・キリストの本当の戒めを実践する、下位にいる教会員達に、我慢がならないのです。

実は、グノーシスも、新プラトン主義も、猛烈なプライドを持っています。これの影響下にある人は、猛烈にプライドが高い人です。(このプライドは、ルシファーから来ています)
従って、自分に勝る何かをする人たちに、猛烈な嫉妬心を抱きます。そうして、烈火のごとく怒って、それを止めます。

三位一体の影響下にある全ての教会では、そのように、猛烈にプライドの高い司祭達、牧師達が、主イエス・キリストの戒めを守ろうとする信徒達を、自分の支配下に置こうと、きつく、縛り上げているのです。