預言者の召命を受けるとはどういうことか?(2) | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

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Courtesy of Tez Goodyer


○この世に「剣」をもたらすために遣わされるのが預言者

主イエス・キリストは、自分が地に平和をもたらすために来たのではない、剣をもたらすために来たとおっしゃっています。これが預言者の立場です。

主イエス・キリストがどのような立場でそれをおっしゃったのか、文脈を確認してみましょう。

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
さらに、家族の者がその人の敵となります。

マタイ10:34-36

主イエスが伝えた神の国の福音は、よく聖書を吟味して読めば、この世の原理とは全く相容れません。この世の神ないしこの世の君によって支配されている価値観、国家、地域社会、企業、学校、家庭などとは、相容れないものを、主イエス・キリストが説いた神の国の福音は、持っています。

従って、「神の国とその義を第一に」求めて生きると決意した人は、「その父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆ら」うことになるのです。まさに、「家族の者がその人の敵となります」。

なぜなのか?

神の国の原理は、創世記にアダムとエバが蛇と口を聞いて、その言葉に従って以降、サタンが覆うようになった地の上に働く原理とは、全く正反対。この世の常識が、神の国の常識の正反対。神の国の常識は、この世の常識とは正反対。そのような関係にあるからです。

これは、パウロがローマ書で肉と御霊の関係を、それぞれが互いに相反するものだと書いていますが、それと同じことです。聖霊のことであれば、肉ではない。肉のことであれば、聖霊ではない。

また、第二コリントで、「汚れたものと分離せよ」と言われています。聖なる父は、聖であられるので、汚れたものとは一緒におられません。汚れたものが一切ないのが神の国です。霊的な汚れ、目に見えない汚れ、人の心の中の汚れ。そうしたものは相容れないのです。神の国は、神を愛する人のためのものです。また、神を愛する人を、天の父は愛して下さいます。

それは、この世的な職業の成功とか、この世的な家族の物質的な繁栄とか、この世的に経済が豊かになることとか、この世的に人間関係がうまくいくこととは、一切、相容れません。

そういう中で、ほぼ全ての人は、そうしたこの世の原理に基づいて生きています。神の国とその義を第一に求める人は、周囲を見渡すと、皆無に近い状況です。残念ながら。ほぼすべてのキリスト信徒の家族は、主イエス・キリストの福音を理解しません。少なくとも、神が働いて、家族全員が救われる奇蹟が起こるまでは、家族の中で、福音を信じている人、そしてそれを実践している人は、一人だけという状況が続きます。

そういう中で、父に反し、母に反し、家族がその人の敵となる。そういうことが起こるのです。

そのような「剣」をもたらすために、主イエス・キリストはこの地の上に遣わされました。

預言者の立場も、全く同じです。

上で引用したマタイの続きの部分を読んでみて下さい。主イエス・キリストの従うことが、いかに厳しさを含んだものであるか、よくわかります。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

マタイ10:37-39

神の国は、この世とは全く相容れません。神の国を求める行為は、自分の十字架を負って、主イエス・キリストについて行く道です。自分の命をも進んで投げ出さなければなりません。

○神から「言え」と言われたことを、言わないでいると、殺されるのが預言者

神に召されているけれども、まだ中途半端な人。神に召される人として、エペソ1:4にある通り天地創造の前から主イエス・キリストにあって選ばれている人。神に召されたけれども、その実、神に反逆して歩んでいる人。預言者は、そういう人たちに、到底受け入れられないようなことを、はっきりと告げます。

天の父が「言え」とおっしゃったことを、それらの人たちに告げなければなりません。

エゼキエルでは、相手が聞いても聞かなくても、それを語らなければならないと、神である主、すなわち、福音書で「天の父」として御子から紹介された神が命じています。

彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。
エゼキエル2:7

「彼らの顔にひるむな」と天の父はおっしゃいます。

人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。たとい、あざみといばらがあなたといっしょにあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、恐れるな。彼らは反逆の家だから、そのことばを恐れるな。彼らの顔にひるむな。
エゼキエル2:6

また、神が、預言者に対して、「言え」とおっしゃったことを、言わないでいるのなら、預言者が、神によって殺されます。


「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。
わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。
もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。
もし、正しい人がその正しい行ないをやめて、不正を行なうなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行なった正しい行ないも覚えられないのである。わたしは、彼の血の責任をあなたに問う
しかし、もしあなたが正しい人に罪を犯さないように警告を与えて、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を受けたのであるから、彼は生きながらえ、あなたも自分のいのちを救うことになる。」

エゼキエル3:17-21

預言者が、預言するとは、そういうことです。

神がご自身の民と認める人たちにおいて、到底、受け入れられないようなことを、「言え」と言われて、言わなければならない。そうでなければ、預言者の命が取られる。預言者とは、そういう役目を、神から負わされた人です。