Courtesy of Stanley Zimny
○三位一体の弊害は多岐にわたる
主イエス・キリストの最終説教であるヨハネ福音書14章〜17章では実に多くのことが教えられています。中でも、天の父の位置付け、子としての主イエスの位置付け、さらには聖霊とはどのような働きをなさる霊か。キリスト教信仰の基本中の基本と言うべきこれらの要素について、御子ご自身が、はっきりと教えています。
しかし、この御子ご自身による、最も重要な最終説教4章分をいくら読み込んでも、三つの神が一つの神であると言う三位一体の理解は得られません。むしろ、三位一体が頭にちらつくと、御子イエスご自身の説明が、訳が分からなくなります。三位一体は、神に関する認識を、訳がわからなくさせる、極めてサタニックな効果を内在しています。
三位一体の弊害は実に多岐に渡ります。主イエス・キリストが唯一のまことの神と呼んでいる天の父が見えなくなることから始まり(ヨハネ17:3)、祈りがかなえられないと言うこともそうですし、三位一体を掲げる全ての教会群に使徒の働きに見られる聖霊が実は下っていないと言うこともあります。
主イエス・キリストが信じる者に与えて下さったこの世のものとは異なる平安が、三位一体の下にあるキリスト教会の人たちに見られない、と言うことも悲しむべき弊害です。キリスト教会には、実に、苦しい人たちが無数にいます。
三位一体は4世紀にいくつかの公会議を経て人がこしらえた神の概念であり、本当の神ではない、偶像であるために、天の父や、主イエス・キリストから応答がありません。三位一体で言う神は、死んでおり、祈りに応えることはありません。旧約聖書には、アシェラ、バアル、モレクなどの異教の神が出てきます。また、アシェラについては木製の偶像があったことが記載されています(士師記6章)。
三位一体は、そうした偶像です。木でできている訳ではありませんが、西暦325年ニカイア公会議等に集まった司教達(300名余)を初めとする最初期の神学を形作った人達が練り上げた神に関する概念でできあがっている偶像です。そこには、主イエス・キリストが「唯一のまことの神」と呼んだ天の父もおられなければ(ヨハネ17:3)、「生ける神の御子」とペテロが呼んだイエス・キリスト(マタイ16:16)も単なる「主」という概念に留まっており、聖霊についても聖句をベースにした字義的な理解に留まって第一コリント12章の御霊の賜物など聖霊の豊かな働きを経験することがありません。
○悪霊の追い出しは信じる者なら誰でもできる奇蹟
三位一体がなぜ間違っているのか? これに気づいたきっかけは、ほぼ全ての教会で悪霊の追い出しに取り組まないのななぜなのか?素朴な疑問を持ったことです。小職は過去数年、悪霊の追い出しに取り組んできました。2017年秋にジョゼフ・ジャシンスキJosef Jasinskiという悪霊の追い出しの大家である牧師と出会ったことが契機となりました。
悪霊の追い出しは、福音書のイエス・キリストが、神の国のデモンストレーションとして取り組んでいた力ある業の一つです。力ある業と聖書で訳されている部分のギリシャ語原語は「デュナミス」。英語訳聖書では「ミラクルmiracle」と訳されています。
それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。
マルコ6:5
マルコ6:5のギリシャ語(Bible Hub)
Mark 6:5
悪霊の追い出しは、ギリシャ語聖書原典では「力ある業」(デュナミス)であり、デュナミスが英語訳聖書では度々そのように訳されている「奇蹟」であると言うこと。悪霊の追い出しは、そうした奇蹟の一つなのです。神の力が発揮されることで、悪霊が出て行くのです。
ジョン・ラミレスのマジックショーのような悪霊の追い出し動画で慣れ親しんだ人は、あれが悪霊の追い出しだと言う先入観が頭にこびりついています。しかしそれは誤り。彼のやり方は、彼固有のやり方であり、いわば人に見せるための悪霊の追い出しとして、一種の看板パフォーマンスとして取り組んでいます。
つまり、「ジョン・ラミレスと言う特殊な技能を持ったミニスターの固有のパワーによって悪霊が追い出される」と言う状況を形作っています。簡単に言えば「彼のパワーで悪霊が追い出されている」と言うことを見せ付けようとしています。
これは、まさに使徒の働きで描かれている魔術師のあり方です(使徒8:9のシモン)。金のために、神の業のように見えることを行う、悪しき存在です。
悪霊の追い出しは、そうしたものではなく、
まず第一に信じた人なら誰でもできる、
第二に悪霊の追い出しのやり方はその人の中にいる多種多様な悪霊に応じて千差万別である、
第三に一度こっきりの追い出しで済むケースは稀であり短期〜長期のプロセスが不可欠になる、と言うことがあります。総じて、神の力が現れる奇蹟として起こります。
福音書で、主イエス・キリストが悪霊を追い出した場面を思い起こしてみて下さい。あれが、神の力ある業、ギリシャ語でデュナミスの現れ、それはそのまま奇蹟です。繰り返しになりますが、デュナミスは何ヶ所かで奇蹟と訳されています。英訳聖書ではmiracle。
○悪霊はその人の信仰を見抜く
三位一体を掲げる全ての教会群では、教会として、悪霊の追い出しに取り組んでいる所はありません。これは、三位一体の神は人がこしらえた偶像であり、その神によって悪霊を追い出そうとしても、悪霊がそれを見抜いて出ていかないからだと結論づけました。
三位一体の神を信じる信仰では、悪霊が出ていかないのです。
三位一体の下では、イエス・キリストも、実は偶像です。罪が赦された実感を経験することがありません。祈っても応えられません。「主」に対して祈る時、それが天の父に向かって祈っているのか、御子イエスに対して祈っているのか、あいまいです。
こう言う信仰では、イエスの名を用いて悪霊を追い出そうにも、信仰が全くあさっての方を向いていますから、悪霊がそれを察知して出ていかないのです。
○三位一体を掲げる限り悪霊は出ていかない
悪霊は、その人の信仰を見ます。
使徒の働きに、祭司長スケワの息子達が「試しに、イエスの名で、悪霊を追い出してみる」場面が出てきます(使徒19:14)。
この時、ここに出てくる悪霊は、スケワの息子達の信仰を見抜いて、むしろ逆に彼らをひどい目に遭わせます。
信仰がなっていないと、悪霊がそのことを見るので、悪霊は出て行きません。また、むしろ反撃に出ることがあります。
推察ですが、おそらく多くのキリスト教会は、聖書に書かれている通りに、主イエス・キリストの名によって悪霊を追い出すことに取り組んでみた。しかし、悪霊は出ていかなかった。場合によっては、スケワの息子達に起こったようなひどい目に遭った。そうした経験が積み重なって、三位一体を掲げるキリスト教会群では、悪霊の追い出しをすべきではないと言う不文律、一種の、「悪霊の追い出しをしない信仰」が培われて行った。そうした経緯があったのではないかと考えます。
「悪霊の追い出しをする側」に身を置いてみると、本当に不思議です。なぜ、キリスト教会では悪霊の追い出しに取り組まないのか?
キリスト教会に通う人たちの中では、悪霊の問題で苦しんでいる人が多数います。
カトリック教会の信徒の中にも過去に直接的間接的に接した何人かがいて、彼女達の大変さに胸が痛みます。
プロテスタント教会に通う人達やその求道者の中にも、過去に直接的間接的に接した人達が無数にいます。多くが深刻な悪霊の問題で苦しんでいます。
アニメ中毒、ゲーム中毒、セックス中毒、ポルノ中毒、アルコール中毒、孤独(友人がいないこと)、コミュニケーション障害、対人恐怖症、パニック障害、邪悪な事柄への執着、メディアやインターネットへの耽溺、バランスを欠いた人格、繰り返す同じ失敗、不眠、社会不適応、繰り返す離婚、親との強烈な不仲、子供を育てられない精神障害、などなど。
ここに挙げたいくつかは私自身も経験したものです。
悪霊の追い出しに取り組まないキリスト教会は、こうした極めて深刻な問題から、その人を解放することができないのです。主イエス・キリストの救いがありません。主イエスにある自由がありません。嘆かわしいことです。人を救うべき教会、が人を救えないのです。
これがなぜなのか?なぜ、キリスト教会一般は悪霊の追い出しに取り組まないのか?なぜ特殊なミニスターのみが悪霊の追い出しを売り物にしていて、その他の牧師や司祭は悪霊の追い出しをしないのか?
答えは、2021年にようやく明らかとなった、西暦325年ニカイア公会議、西暦381年コンスタンティノープル公会議で定まった三位一体という教義。これの影響下にある全ての教会群では、三位一体の神が偶像に他ならないために、悪霊の追い出しができないのだという真実にあります。
資料:ニカイア・コンスタンティノポリス信条(日本語) (←三位一体の教義の根幹である同信条の日本語訳があります。読み込むとおかしな内容です。父に関する記述と聖霊に関する記述はごくわずか。これは父を知らないし、聖霊を経験していない人が練り上げた文章であることを物語っています。彼らはグノーシス教および神秘主義・新プラトン主義の影響下にあり、ユダヤ人コミュニティに所属していないので旧約聖書セプトゥアギンタをほとんど読んでおらず、旧約聖書で示されている神、すなわち福音書では御子によって天の父と紹介された神を知らない。またグノーシス/新プラトン主義の影響下では真理の御霊である聖霊が下らないから聖霊を知らない。そうした人々によって練られた文章です。)
(325年ニカイア公会議、381年コンスタンティノープル公会議、およびそれに前後する公会議Synodに集まっていた司教達BishopsがグノーシスGnosticismの影響下にあり、新プラトン主義Neoplatonism者でもあったということを示す文献、論文はインターネットに夥しく存在しています。以下は一例です。
Early Christian History - What Didn’t Happen At Nicæa
Neoplatonism and Christianity
)
彼らには悪霊の追い出しをしたくても、できないのです。三位一体の嘘いつわりの神を掲げているが故に。悪霊がそれを見抜いて、出ていかないのです。