Twitter投稿から:私が牧師と違う点について | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

 

私が牧師と違うのは、いくつかあって、まず、経験したことを語るようにしていること。
信仰。祈り。天の父。主イエス・キリスト。聖霊。神の言葉。悪霊の追出し。霊の戦い。全て経験したことを書くようにしている。
子供の頃から、本に書いてあることは、自分で試して見ないと気がすまない。

聖書に書いてあることは、本当だろうと思って、言葉が相応しくないかも知れないが、試してみる。詩篇110に書いてあるシオンの力の杖が霊的な戦いに使えると、これは啓示のような理解だったが、そのようにわかって、早速試して見ると、大変に有効だった。そのように経験によって理解したことを書く。

第二に、神から聞いたことを書くこともある。一般的に、神と話ができる人がかなりの少数派であることはよく理解しています。なので、神から聞いたと言うと「えっ?」となることはわかります。
牧師は通例、神学校で神から聞く技法を教わる訳ではないので、これをしないまま過ぎる方も多いと思う。

神から聞くということには、天の父から何かをいただくケース、主イエスから教えてもらうケース、聖霊が教えるケースの3パターンがある。私は天の父に聞くパターンが多いです。
例えば、天に上げられる人は少ないと伺っています。これは主イエスの狭い門から入れ、それを見出す人は少ないに対応します。

私がTwitterでガンガン書くのは、また毎週日曜日にメッセージングをするのは、天の父がおっしゃった、上げられる人は少ない(狭い門から入れ、これを見出す人は少ない)があることから、一人でも天に上げられる人を増やしたいという思いがあります。
そういう神から聞いて行動することが牧師と違う。

第3に、初代教会の信仰の回復に取り組んでおり、神の国をこの地の上で、今、現すことに取り組んでいることが牧師と違う。
私は終焉主義Cessationismで預言は終わったとか奇跡は今の時代起きないとか考えることを、教会の堕落だと受け止めます。またマルコ16章の信じる者に伴うしるしを教えないことも。

神学をベースに説教を組み立てる、教会活動を組み立てると、どうしても教えられない聖句、取り組むことができない神の言葉が出てきます。例えば、主イエスを信じる者は主と同じ業を行い、またそれよりももっと大きな業を行うと言う主イエスのお言葉。これは神学を基にすると教えられません。

けれども誰も教えてくれない、どこにもお手本がない中で、聖書に書いてあるからと試して見る。わからなければ主イエスに祈りの中で聞く。そうしたことを繰り返していると、経験としてあぁこういうことなのかとわかってくる。
そのようにパウロの信仰やステパノの信仰、ペテロの信仰などに取り組む。

初代教会の信仰がなぜ今の教会にないのか?と素朴に不思議に思いながら取り組む。
一方で初代教会がキリスト教史から抹消されて全く違う教会が立ち上がり、その伝統が今に及んでいることを英文資料で確かめる。。
天の父にも聞く。
するとものすごいことがわかってきます。
Twitterに書いてきました。

そうしたことをしながら、初代教会の回復に取り組み、主イエスが宣教し、パウロが論じていた神の国をこの地の上で、経験できるようにすることに取り組んでいます。そこが牧師とは違います。