使徒の働きを読むと、初代教会の時代に(1世紀に)、教会(地域に形成された主イエスを信じる人々の集まり)にいたのは弟子たちです。
さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ」と言われたので、「主よ。ここにおります」と答えた。
すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。
(使徒9:10-11)
アナニヤは前後の脈絡から熱心に主イエス・キリストを信じていた人だとわかります。おそらくは、聖霊の働きが豊かで、幻の中で主イエス・キリストが直接語りかける関係にあったのでしょう。文字通り弟子として、主イエスに仕えていたと思われます。
それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。
(使徒9:28)
パウロと呼ばれる前のサウロは、エルサレム教会の弟子たちと行動を共にしていました。エルサレム教会にいたのは信徒ではなく、弟子たちです。パウロも弟子の一人でした。後に使徒としての自覚を持つことになります。
さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。
ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。
そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。
この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。
彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。
彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。
バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、
彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
(使徒11:19-26)
大勢の弟子たちが、当時の拠点教会があったアンテオケにおいて「キリスト者」(ギリシャ語Christianos、キリストに従う人)と呼ばれるようになったとあります。
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主イエスは昇天前に、弟子たちに向かって「世界に出て行って弟子を作りなさい」と命じています。従って、この頃の弟子たちは、その命令に忠実に従って、弟子を養成していたのではないかと思われます。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
(マタイ28:18-20)
この時、弟子は、主イエス・キリストを信じて、主イエス・キリストと同じことを行う人、ということが想定されていたと思います。なぜなら、主イエスご自身が、「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない…」とおっしゃっているからです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
(ヨハネ14:12)
また、「信じる者」のしるしとして以下をおっしゃっています。
信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、
蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」
(マルコ16:17-18)
ルカが書いた使徒の働きを読む限り、初代教会の人々は、こうした主イエス・キリストが想定した弟子としての活動を行っていたと言うことができるでしょう。
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米国には聖書時代の歴史、地理、文化を丁寧に説明するコンテンツを配信しているサイトがあり、Preserving Bible Timesという名称で運営されています。
そこでイエス様が活動された時代の弟子養成についてビデオ講義(イエスのやり方にならって弟子を作る)を行っているDoug Greenwoldという牧師が、別なサイトで「紀元1世紀に弟子になるとは?」(Being a First-Century Disciple)という記事を書いています。
当時はユダヤ教が社会の隅々にまで行き渡っていた時代です。その中で「先生と弟子の関係」がどのようなものであったかを説明しています。
その記事を要約してみます。
・1世紀のユダヤ人は、聖書(旧約聖書)が人生の基盤であることをよく理解し、神の命令(律法)に基づく「行動」が「義人」であるために重要だと考えた(心のあり方ではなく行動が義人の条件だった)。
・パリサイ派の世界では、先生(ラビ)は神の言葉を解釈する権威を持っていた。人が義人となるためには、どのような行動が重要で、どのような行動が重要でないかを教えた。
・ある人がある先生の弟子になりたいと希望した場合、先生がいったん弟子として認めた後は、弟子は、先生による神の言葉の解釈を権威あるものとして受け止め、従うことが求められた。神の言葉を先生の解釈に従って理解し、そのような行動をすることが求められた。
・人生の様々な側面において、神の言葉がどのように適用されるか。弟子たちと先生とは常に議論していた。そのような議論が当時の弟子教育だった。
・当時は13歳になるまでに旧約聖書を全て頭に入れていたから(暗記しないまでも)、「何が書いてあるか?」が学びのテーマではなく、「個々の神の言葉をどう解釈するか?」がテーマだった。そこで先生の解釈が重みを持った。
・当時の弟子教育には何年間で何を学ぶかを定めたカリキュラムはなかった。先生は弟子の生活を見ていて、それを基に先生が弟子に質問を投げかける。それに弟子が答える。そうした先生と弟子の日常的な関係が弟子教育の源泉だった。
・弟子は先生の生き方や行動を真似ることを好んだ。例えば、安息日にどう行動するか?弟子は先生の行動を見て真似た。
・「信じる」ということは、神の言葉を知的に理解することではなく、先生の解釈に従って、人生の全領域でそれを生きることを意味した。ある先生の弟子になるということは、その先生の神の言葉の解釈に人生のすべての局面で従い、生きることを意味した。
Doug Greenwold牧師のこのような記述を読むと、福音書に記されている主イエスと弟子のやりとりが生き生きとよみがえって来ますし、当時のパリサイ派の人たちが、なぜ主イエスに事細かに質問したのか、その背景もよく理解できてきます。
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主イエス・キリストの弟子になるとは、当時の文化的な常識であった旧約聖書全体の理解を前提として、主イエスの神の言葉の解釈を、繰り返される質問と回答のの中でよく把握し、それを実践することであった、ということがうっすらとわかってきます。
例えばマタイ5章の山上の垂訓も、当時のユダヤ教の教師の神の言葉の解釈ではなく、天の父の御子であるイエスとしての神の言葉の解釈であったと理解すれば、どれほど革命的な説明であったか、ということが飲み込めてきます。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
(マタイ5:45-48)
おそらく上のような説明も、当時のほとんどのユダヤ人にとっては、きわめて鮮やかな衝撃をもたらしたでしょうし、パリサイ派などの教師たちには強いジェラシーを呼び起こしたことでしょう。
主イエスの弟子になるとは、そうした人と問答を繰り返しながら、その行動を真似ていくということだったと思います。
とすれば、使徒の働きの以下のペテロの行動もよく理解できます。
ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。
人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
(使徒3:1-9)
ペテロは主イエスの忠実な弟子であろうとして、主イエスが行っていたことを、そのまま真似たのです。