日本の神と聖書の神の違い | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Andreas Komodromos

 

 

 

イントロ

一度、このことを整理しておきたいなと思っていました。

聖書についての前提の知識がなくて、イエス・キリストを信じるようになった人たちに、あるいは、その一歩手前にある人たちに、聖書の神が、どのように日本の神と違うのか、はっきりと頭の中で整理できる枠組みを、提供させていただきたいと思います。くっきりはっきり、違いがわかっていただけると思います。

日本の神は時々参拝に行って拝む神

神道の神社で祀られている日本の神々。一つひとつの神に由来があり、個々の神社では、祀られている神が異なります。クリスチャンの家庭でなければ、多くの人は、お正月に初参りに行って、お賽銭を上げて、鈴を鳴らして、手を合わせて拝みます。
また、子どもが産まれた時や家を建てる時などに、神主に頼んで、祈願をしてもらうこともあります。

安産の神がいて、学業の神がいて、商売繁盛の神がいます。目的に応じて合う神社に行って、お賽銭を上げて拝んだり、神主に祝詞を上げてもらいます。

こうした日本の神道の神を拝む人の中で何が起こっているのか?
その神をどのように信じているのか。信仰心を持っているのか。

そうした神社に行って拝む人の日常では、常にその神と一緒にいるのか。毎日拝むということをするのか。

多くの場合は、お正月や人生の区切りに神社に参拝することがあるとしても、日常的には特定の神を信じているわけではない。むしろ忘れている。時々思い出して、神社へ行って改めて拝むことはある。しかし、自分の生活の中で、全的に、その神を崇拝しているという訳ではない、という方々がほとんどだと思います。

日本の神は、多くの人から見たら、必要に応じて、時々、神社に参拝に行って拝む。そのような存在なのではないかと思います。

それに対して、聖書の神は、その人に対して、愛により、あわれみにより、常に付き添って守って下さるという存在です。そのことは後で説明します。

日本の神と、一人の人との関係は、かなりゆるく、そこには約束や、誓いのようなものはありません。「私はこの神を信じることを誓う」という対象にはなりにくいのが日本の神なのかな、という気がします。
もちろん、神主として、自分の人生をかけてその職務を全うするという立場はあると思います。しかし多くの場合は、日本の神と人との関係は、あまり緊密ではありません。毎日毎日、信仰心を新たにして、神に近づくという対象ではありません。

聖書の神はまずユダヤ人をお選びになった

聖書の神は、まず、ユダヤ人の神であった、という点がポイントです。それが、イエス・キリストによって、日本の我々にも恩恵が及ぶ神になりました。

聖書冒頭の創世記に書いているように、「神である主」が天地万物をお造りになりました。また、人間も造られました。
この神は、宇宙を作り、地球を作り、全地を造った本当の神ですが、まず、ユダヤ人に現れて、ユダヤ人を「神の民」としてお選びになりました。

最初は、アブラハムに現れ、その子のイサクに現れ、その子のヤコブに現れました。

なぜ、天地万物をお造りになった神が、こうした特定の人に現れて、お言葉をかけられたのかと言うと、聖書の神には、ご自分の民である「神の民」が明確にあるからなのです。聖書の神は、ひたすらにご自身の民を愛したいのです。

逆に言えば、聖書の神には、ご自身を本気で愛する人々を、ご自身の民として選びたいというお気持ちがあります。神を神とも思わない人々ではなく、神を神と認め、しっかりとした礼拝を行い、賛美を捧げ、感謝を捧げる人々を「神の民」として愛したい、恵みを与えたい、祝福したいという思いがあられます。

こうした「神の民」を選ばれる神である、というのが聖書の神の特徴です。誰でも彼でも良いという訳ではないのです(イエスの出現によって門戸がグーンと開かれます)。特別な条件を満たした人を「神の民」として選ぶのが聖書の神です。


なので、聖書の神の下に入ることは、神によって選ばれた民の一員になるということでもあります。簡単に言えば、神よって選ばれた人になる。それが聖書の神を信じることの意味です。

また、神と神の民の関係は相思相愛です。神がお選びになったご自身の民を熱烈に愛される。選ばれた民の側も神を熱烈に愛する。こうした愛し愛されという関係が、聖書の神と神の民の関係です。

そういう民の第一番の祖先として、まず、アブラハムに現れました。そうして息子イサクに現れ、その息子のヤコブに現れたという経緯があります。

神はアブラハムと明確な「契約」を結ばれました。そうして、その契約は、アブラハムの子孫を永遠に祝福するという内容でした。従って、アブラハムの息子イサクに現れた神も、その息子ヤコブに現れた神も、もちろんどちらも同じ「神である主」ですが、神は常にアブラハムと結ばれた契約をベースにしておられました。アブラハムを愛されてお選びになったので、その愛おしいアブラハムの息子、孫ということで、イサクやヤコブに接しておられました。

このアブラハムとの契約をベースにして、アブラハムの子孫を特別な存在として特別に祝福されるのが、聖書の神です。(日本の我々は、イエス・キリストを通じて、このアブラハムの霊的な子孫になれます。)

アブラハムの祖先は何十万人、何百万人と増えて行き、ユダヤ人と呼ばれる民族となり、あるいはイスラエルの民と呼ばれる人々になって行きました。

歴史上のある時まで、聖書の神はユダヤ人の神、イスラエル人の神でした。

信仰によって日本人も神の子どもになれる

紀元前4年ごろ、歴史上の人物としてイエスという名前の男性が登場します。このイエスは、旧約聖書でメシア(救世主)が出現すると預言されていた、そのメシアでした。つまり、人間でありながら、神の子であり、神としての性格も持っていた人でした。新約聖書ではこれを「神の子」「神のひとり子」「御子」と呼んでいます。

それに対して神は「天の父」「父なる神」あるいは単に「父」と呼ばれています。
旧約聖書の「神である主」は、新約聖書では、御子であるイエスの登場により「天の父」と呼ばれるようになりました。神において、父と子の関係が現れたのですね。

そうして、この御子イエスは、旧約聖書で預言されていた通りに、十字架でご自分の命を犠牲として捧げられました。この犠牲は、旧約聖書の決まりごとであった「人の罪を帳消しにするためのいけにえ」という性格がありました。人々の罪を帳消しにするために、神の子であるイエスが十字架で死ぬ必要があったのです。これはものすごいことです。天にいた神の子が、地の上に降りてきて30歳ぐらいまで暮らし、その後宣教活動を数年した後、十字架で自分自身をいけにえとして捧げたのです。これはどの国の神も行ったことのない自己犠牲です。

そしてまた、墓に葬られてから三日目に、神の全知全能の力によって、復活されました。死を克服されてよみがえられたのです。これもまた、他の国の神には見られないことです。

■神であったのに→人としてこの地に来られ→人々の罪を帳消しにするために自らいけにえとなって命を捨てられた
■命を捨てて死んだ後で墓に葬られ→三日目によみがえって死を克服された


このような業(わざ)を行われた神は、他にはありません。
これが聖書の神の特徴です。

旧約聖書の神である主、新約聖書の天の父は、このイエスによって、誰にも開かれた存在になりました。このイエスを信じることによって、神の子どもとなれることが確約されたのです。言い換えれば、イエスを信じることによって、アブラハムの霊的な子孫となり、特別な「神の民」に加えられることになったのです。

アブラハムに現れた神は、ご自身が愛する民を特別に扱われる神でした。永遠にわたる契約で、神の民を祝福された神でした。その神は、ご自身の御子イエスに十字架を経験させ、よみがえりの業を現されて、このイエスが「神の子であること」、イエスが「十字架にかけられて死なれ、三日目によみがえられたこと」を信じる人を、ご自身の民に加えられるという、新しいお約束出現しました。

この新しい約束、すなわち、イエスを信じる人が神の民に加えられるという新しい神のお約束が「新約」(新しい契約)です。また、イエスを信じる人が神の民に加えられ、アブラハムの契約を引き継いで永遠にわたる祝福を受けられるようになるというのが、良い知らせ「福音」です。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
(ヨハネの福音書1:12)

上の聖句で「この方」とあるのは、イエスのことです。

以前はアブラハムと血の繋がっている民族のみが神の民でしたが、これからは、イエスを信じる人が、その信仰によって神の民に加えられることになったのです。しかも、イエスを信じるとアブラハムの霊的な子孫になれるだけでなく、「神の子ども」になれる「特権」が与えられたというのが、イエスを信じる信仰の特徴です。

整理すると、神とアブラハムの関係は契約に基づいていた祝福でした。
イエスの登場によって、神と人々の関係は、信仰に基づくものに根本的に変化しました。イエスを信じた人を、神はご自身の子どもとして扱うという、途方もない祝福を与えて下さいました。これは、ユダヤ人だけでなく、非ユダヤ人、聖書では「異邦人」と書かれている人々にも開かれた祝福です。そうして、日本の我々も、信仰によってこれにあずかることができるのです

神の子どもになるのにお金は必要ない

聖書の神の特徴は、イエスを神の子であると信じる信仰によって、神との特別な関係に入っていくことができるという、信仰による結びつきが特徴です。

この信仰により、神の子どもになれることについては、お金は必要ないのですね。代価は、すべて、神の子であったイエスが、十字架でご自身の命によって支払いました。救われることに対するお金は、イエスの十字架によって支払い済みとなったのです。

これにより、世界中のどの国の人でも、イエスを信じさえすれば、神の子どもとなれる道が開かれました。

日本の神とはずいぶんと異なった存在だということが、おわかりいただけると思います。

いつも共にいて下さる神、聖霊の存在

もう一つ、大きな違いが、聖書の神が、三つの神が一つの神でもあるという、不思議な特徴があるということです。

上で記した天の父も神であり、御子イエスも神です。また、御子イエスを信じると、聖霊という神がその人の中に宿ります。天の父、御子イエス、聖霊。この三つの神は、実は一つの神でもあるという性格を持っています。どの神にアクセスしても、別な二つの神にもアクセスしていることになるという特徴があります。

 

例えば、御子イエスに集中すると、天の父の愛が注がれ、聖霊に満たされます。聖霊を求めると、御子イエスに近づき、天の父への道が開かれます。天の父を見上げると、御子イエスが顔を出し、聖霊が満ちます。そういう分かちがたい関係にあります。

そうして、神としての聖霊は、イエスを神の子だと信じる人の内に宿るので、聖書の神を信じた人は「神が自分の内にいる」状態になります。すなわち、いつでも神の助けがいただける状態になります。

神が、神社に行って参拝する対象ではなく、信じる人の内側に常住する存在になるということもまた、聖書の神の大きな特徴です。

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
(第一コリント3:16)

聖書の神は、信じた人と、常に共にいる、非常に近しい存在です。朝起きる時も、仕事をする時も、寝ている間も共にいて下さって、その人を守り続け、祝福し続けます。

 

ということで、整理してみました。いかがでしょう。