個別:本当の人生の主役は神であること | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

liz west

 

 

 

私たちは、よく、悩んだり、迷ったり、つまづいたりしながら、いわゆる人生というものを歩んで行きます。

一般的に、世の中にたくさん存在している人生のためのアドバイス、教え、カウンセリングなどは、「その人がその人生の主役である」という前提で、組み立てられています。

 

主イエス・キリストに完全な救いがあると思って、その道を歩み始めた人は、いつか、神がもたらす経験によって、「あ、私の人生の主役は、私ではなくて、神様だったんだ」と気づかされます。

 

聖書の神は、天の父、主イエス・キリスト、聖霊の三つの形をとり、三つにして一つという不思議な現れをなさる神ですので、その時、「あ、私の人生の主役は神様だったんだ」と気づいた時の「神様」が、場合によっては天の父のこともありますし、御子イエスのこともありますし、聖霊のこともあります。しかし、いずれも一つの神ですから、つまるところは同じです。

 

神は、霊とまことによって礼拝する礼拝者を求めておられます(ヨハネ4:23)。霊とまことによって神を礼拝するとは、神が最優先の存在であることを認めて、自分を捧げて神に向き合う、ということです。この時、自分が主役なのではなく、神が圧倒的な主役です。

 

主イエス・キリストの役割と、天の父の役割は、当初はわかりづらいところがありますが、新約聖書を読み込んでいくと、特に、ヨハネの福音書とパウロの手紙を読み込んでいくと、「御子であるイエスを通じて、父なる神を礼拝する」のが正しいあり方だということがわかってきます。

 

御子イエス・キリストも神であり、もちろん礼拝の対象です。しかし、その御子イエスは、天の父への霊とまことの礼拝の道を切り開くために、この地の上に来られたのです。そうして、自分の命まで十字架で捧げられました。

 

この、神のひとり子の十字架の上での犠牲によって、私たち罪ある人に、また、私たち異邦人に、天の父を礼拝する道が開けたのです。すばらしいことです。実は、このことがわかることは、その人にとっての奇跡です。

 

パウロの手紙に、「私たちにために死んで下さった方のために、私たちは生きる」という意味の文章があります。これは、私たちのために死んで下った主イエスのために、私たちが生きるように作られているということです。

 

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
(第二コリント5:15)

 

主イエス・キリストに集中し続けると、天の父との関係が開けます。また、聖霊に満たされます。これは、主イエス・キリストのみことばに集中し続けると…ということと同じ意味です。

 

そのようにして、御子イエスを通じて、天の父を見上げる関係が確立すると、「おお、そうか!私の人生の主役は、私ではなくて、この天地万物をお造りなさった天の父と、御子イエスなのか。そうかそうか!よくわかった」という日が来ます。これが以下のみことばにある「その日には」の「その日」です。

 

その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。
(ヨハネ14:20)

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

(ヨハネ16:23-24)

その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。

(ヨハネ16:26-27)

 

天の父と主イエスが自分の人生の主役であることがわかると、主イエスが十字架とよみがえりによって私たちに下さった完全な自由がわかってきます。

私たちが、私たちの人生であると思い込まされたきた、そこには神がいなかったのは、実は、サタンがもたらした幻影です。嘘の思い込みです。それから自由になると、そこに本当の主役であられる神がいることが見えてきます。

 

創世記で蛇にだまされる前の神である主とアダムの関係。そこには、理想的な神と人間の関係がありました。

その関係に、イエス・キリストの十字架を通じて、戻ることができるのです。