新約聖書には、「あなたは神の子どもです」というメッセージが多く登場します。例えばヨハネの福音書1:12。私は実はこれが、腹の底からわかっていませんでした。クリスチャンと言われるものになってから10数年、これがよくわからずにいました。
今では、これがよくわからなかった理由が、少しわかる気がします。
日本を数百年覆ってきた福音の光を輝かせない敵の霊(第二コリント4:4)。みことばの素朴な信仰を阻む敵の霊の目に見えない圧力(コロサイ1:13)。日本で多くの人に集団的な行動を強いてきた目に見えない力(エペソ6:12)。その根底にある日本社会の律法主義に似た価値観。日本語という言葉にある本音と建前を使い分ける二重構造。こうしたものが一丸となって、聖書のみことばを素直に受け止めて信じることを、目に見えない形で阻んでいた。そういう理解をしています。
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日本はやはり特殊な土地柄で、クリスチャンの比率が1%、2%という現実も、やはりおかしいと言えばおかしいです。明治時代に米国に渡航して、当時の米国の最新のキリスト教会の諸事項を学んで宣教師として帰ってきた新島襄(同志社大創設者)の時代から140年。これだけの期間を経ても、依然としてクリスチャンの比率がこのように低く留まっている先進国というのは、あまりないです。(参考サイト)
エペソ6章では、パウロが、霊的な戦いについて書いています。エペソ6章からわかるのは、悪魔の策略があるということ、私たちの格闘は人間に対するものではなく、「主権」、「力」、「この暗やみの世界の支配者たち」、「天にいるもろもろの悪霊」(いずれも新改訳第三版による)に対するものであるということです。
この「主権」、「力」、「この暗やみの世界の支配者たち」、「天にいるもろもろの悪霊」の4つが、実は、かなりわかりにくいです。何を指しているのか。そうして、日本にどのように関係があるのか。
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ここでは「主権」と訳されている"Principalities"についてだけ、見てみましょう。これが理解できれば、他もおおむね理解できます。英訳聖書の古典、長きにわたって規範となってきたKing James Versionでは、エペソ6:12は次のように訳されています。
For we wrestle not against flesh and blood, but against principalities, against powers, against the rulers of the darkness of this world, against spiritual wickedness in high places.
主権=principalities
力=powers
この暗やみの世界の支配者たち=the rulers of the darkness of this world
天にいるもろもろの悪霊=spiritual wickedness in high places
となっています。
主権と訳されているPrincipalities(単数形でPrincipality)は、英語の元々の意味は「Princeが治めている王国」です。大元のギリシャ語の意味を辿ると「始め(かしら)である者」と言う意味です。簡単に言えば、その場所を牛耳っている者、という意味になります。
日本に関して言うと、キリスト教が日本に伝来する以前から、日本を牛耳っていた目に見えない霊の諸勢力ということになります。それがPrinciparities、新改訳第三版では「主権」、新改訳2017年版では「支配」、新共同訳では「支配と権威」と訳されているものです。
日本には昔から、この土地を何らかの意味で支配していた非聖書的な霊の諸勢力があった。それが福音の伝道を難しくしている。また、信徒の信仰が深まることを阻んでいる。そのように理解すると、色々な物事がはっきりと見えてくるように思います。
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こうした、その土地にはびこる、その土地固有の敵の霊の勢力というのは、聖書の時代から各地域で見られたもので、イスラエルの民がエジプトを出てカナンに入るまでの間にも、異邦人の土地に関連して様々な困難がありました(例、アマレク人との戦い)。神の民が、その土地において、様々な難しいことに出くわす。そういうことが、あるわけです。
ヨシュア記では、異邦人の城塞都市エリコに対する戦いが描かれていますが、あれも、その土地における霊的な戦いの象徴的な話として読むと、理解がしやすくなります。新改訳で「聖絶」と訳されている言葉も、霊的な戦いの枠組みの中で読むと、よく理解できます。
日本においても、昔から存在していた、聖書的ではない、この土地固有の霊の諸勢力がそれぞれの地域をいわば牛耳っていて、そこに主イエス・キリストの霊的な支配が及ぶことを拒んでいる。そのように理解すると、クリスチャン人口がいまだに1-2%に留まるということが、すっきりと腑に落ちます。
このことは、自分が生活をしている土地で、その土地を覆っている敵の霊の諸勢力に対して、御国の鍵(マタイ16:19)で縛り上げ、「御霊の与える剣である神のことば」(エペソ6:17)を宣言して、主イエス・キリストの権威を確立していく信仰の業を行っていくなかで、よく理解できていくと思います。聖書のみことばに基づく霊的な戦いをしていないと、その土地にいる敵の霊の諸勢力のことは、今ひとつぼんやりとしていて、頭では理解できるけれども、実感として何もわからない、ということになると思います。
私が今住んでいる地域では、古くからのお寺が多く、今年1月末に長い海外旅行から帰国して住み始めた当時、いわく言い難い重苦しい霊的なものを常に感じさせられて、どうしたものかと思っていました。それから、イエス様の血によってこの地域を清めていただくことを祈り始め、それと並行して、地域にはびこっている敵の霊の諸々を、一連の手順に従って、対処するということを行うようになりました。いずれも聖書のみことばに根拠があるもので、霊的な戦いの一つのやり方です。
現在では、神が主イエスの名による祈りに応えて下さって、この地域の重苦しい敵の霊がもたらす目に見えない圧迫がなくなり、非常に晴れ晴れとした雰囲気になっています。ハレルヤ!
このようなことを、その土地その土地で、個々のクリスチャンが行なっていくならば、イエス・キリストの福音に重くのしかかっていた目に見えない圧迫もなくなり、日本全体が明るくなると思います。
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日本に長らく働いてきた敵の霊の諸勢力Principaritiesの特徴の1つに、集団的な活動を強制するということがあります。典型的な例として、第二次世界大戦中の「国家総動員法」の下において全国民が「国体」(当時の日本国を成り立たせていたもの)の維持のために駆り立てられ、全体主義的な動きの中に縛られたということがあります。それに背く個人は「非国民」と非難され、社会から排斥されました。
この図式は、2010年代になった今でも、社会や企業や学校などで息づいていると思います。目に見えない、集団的な活動を強いる、ある種の力が、色々な場所や組織を覆っています。
企業でいわゆる不祥事が起きると、メディアが書き立てて、それと前後して、経営陣が記者会見に出てきて謝罪するという慣行があります。あれも、集団主義的なものを強いる目に見えない敵の霊の支配下において、何らかの落ち度があった人・組織が、集団主義的なもので結び付いている大勢の人たちから、ある種の裁きを受けていると解釈すると、よく理解できます。集団的支配にしくじったので、制裁を受けている、ということです。
日本にある自殺の図式。いじめの図式。引きこもりの図式。大企業と下請けの関係など、色々なところに、この敵の霊の働きがあると理解しています。
この関連をよく理解するには、山本七平が書いた「『空気』の研究」を読むと良いと思います。目に見えない「空気」が日本を戦争に駆り立て、日本の社会や組織の色々なところで、人々の行動や意思決定に影響を与えているということを、かなりわかりやすく述べています。「空気を読めよ」と言う時の「空気」が、まさに山本七平が論じている空気です。彼は、日本文化や日本社会を聖書的な観点から客観的に見ることのできるクリスチャンであったと解釈しています。
聖書的な文脈で言う「悪霊」の理解が日本で急速に進んだのは2000年以降だと思います。そのため、山本七平が1975年に書いた「『空気』の研究」では、「空気」が日本を強く覆っている悪霊であるとは論じていません。しかし、彼が論じていた「空気」が果たしていた/果たしている役割は、まさに悪霊の働きに他なりません。目に見えない一種の圧迫力、同調圧力となって、その組織やその場に影響力を及ぼします。
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私は、こうした集団主義的な行動を強いてきた悪霊-----デリック・プリンスによれば、サタンと悪霊には上下関係があり、主イエスの王国を真似て、一種の国を成しているとのことですから、悪霊と言うよりも悪霊の上位にいるprinciparitiesの1つ、いわば下位のサタン、言い換えればその地域を支配している非聖書的な神々の1つ-----から、誰であれ、主イエス・キリストの十字架によって自由になることができると信じています。それこそが福音です。
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私はこの悪霊を、その働きから「集団支配を強制し、それから外れた人を村八分にする霊」と名付けました。以前にこの関連に関して、何本か投稿を上げましたが、いずれも不十分なところがあり、誤解を招くといけないので現在は削除しています。略して「集団支配と村八分の霊」としましょう。
この集団支配と村八分の霊は、歴史的に、隠れキリシタンをあぶり出すための制度であった五人組が日本の社会の隅々に浸透し、定着する過程で、人々の価値観や人々の口から出る言葉に影響し、日本の多くの集団に住み着くようになったと理解しています。(たまたま、悪霊が人に住み着くパターンについて、こちらで整理しました。ここに書いているいずれかの事が、五人組が社会に浸透して100年、200年と過ぎるうちに、集団的に起こったと考えられます。その国全体を覆う悪霊、いわゆる強い人については、デリック・プリンスが論じています)
キリシタン弾圧が始まる以前の日本は、イエズス会、フランシスコ会などの宣教師が日本にやってきて、日本の津々浦々を巡り歩き、その関連の研究家であるケン・ジョゼフ・ジュニア氏によると、キリシタンの数が300万人に上る勢いであったと言われるほど、宣教が非常にスムーズに行った国でした。つまり、その時には、集団支配と村八分の霊は働いておらず、日本の土地はイエス・キリストの福音に対して抗う敵の霊が存在しなかったがために、福音宣教が大きな成果を収めたのだと思います。
同氏は、どちらかの修道会が作成した日本の宣教地図を見たことがあるそうで(直接聴きました)、その地図を見ると、日本の数多くの町や村でキリシタンのコミュニティが作られていたとのことです。
しかし、これに対抗する敵の霊の勢力が現れ、関連する人(宗教家、為政者)を動かし、結果として、キリシタン迫害の社会制度ができあがり、隠れキリシタンを密告する仕組みである五人組が編み出され、社会の隅々に浸透して行ったという理解をしています。
長くならないようにざっくり記していますが、日本社会を覆っている集団支配と村八分の霊は、大元が、隠れキリシタンをあぶり出すための仕組みであり、ストレートに言えば、反キリストの霊が根底にいる悪霊である、と言うことができると思います。
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イエス・キリストの福音が浸透しやすい土地と、そうでない土地とはあるようで、詰まるところは、目に見えない敵の霊の諸勢力の活動が強いかどうかです。昨年、ロンドンに二ヶ月半滞在していた時は、社会の至る所で、ドルイド教的なものの影響を感じました。
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聖書では、こうした敵の霊の諸勢力の働きを「暗やみの圧制」(コロサイ1:13)と表現しています。「圧制」とは英訳聖書ではdominion、ギリシャ語原義では「霊的な権威」「霊的な力」「この地に働く力」。
「暗やみの圧制」という表現の全体が意味しているのは、「暗いところから来る霊的に影響力の強い力」となります。
十字架に付けられ、三日目によみがえられた神の子であるイエスを信じることによって、こうしたものから、私たちは解放されます。
神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
(コロサイ1:13)
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なぜ、主イエス・キリストを信じることで、こうした暗やみの圧制から解放されるのか?言い換えれば、なぜ、集団支配と村八分の霊の影響から脱することができるのか?
サタン・悪霊が働いているのは、霊の領域です。目に見えない領域です。
信仰の「信じる」ということは、この霊の領域にものすごく大きく関係しています。自分は、信じることによって、霊の領域に働きかけます。しかも、その「信じた言葉」を口で言う時に、霊的な領域に大きく作用します。ローマ10:9-10で言っている、信じて告白するとは、そう言うことです。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
(ローマ10:9-10)
主イエス・キリストを信じ、そのことを口で言う時に、目に見えない霊の領域では、その人を所有・占拠してきたサタン・悪霊がその人を手放さざるを得なくなり、その人を所有・占拠する権利が主イエスに移行するということが起こります。
目に見えない霊の領域では、エペソ6章に見るように、諸々の敵の勢力が活動していますが、同時に、主イエスと聖霊と天の御使いも活動しています。双方が、1人の人の所有権を争っている状況があると考えればよいでしょう。
ここにおいて、「私はイエス・キリストを主として信じます」と心で信じて、告白することで、サタン・悪霊の側から、主イエスの側に、その人の所有権が移ります。そうして、その人がその後も、聖書のみことばを守っていくことで、主イエスの守りのもとで生きていくことができます。以下のみことばはそのことを言っています。
神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
(コロサイ1:13)
「神の子どもとなる」ということも、そういうことです。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
(ヨハネ1:12)
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
(ローマ8:16)
あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
(ガラテヤ3:26)
イエス様は、ヨハネの福音書において、ご自身と父との関係を語っておられます。主イエスを信じることによって、イエスは御子であられますから、御子と天の父の関係に招き入れられます。御子を信じることによって、父との直接的な関係も生まれるのです。
したがって、その人は、天の父の子ども、すなわち、神の子どもとなります。
神の子どもなので、もう、サタンも悪霊も手が出せない訳です。仮に、過去からの流れで、その人のどこかの領域に悪霊が残っていたとしても、聖書的なやり方で、イエス・キリストの名によって追い出せば出て行きます(マルコ16:17)。
神の子である御子イエスが自由にしたのなら、その人は自由なのです。
ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。
(ヨハネ8:36)
このことが頭では理解できる。しかし、心の底からの理解がなかなかできない。そういう方もいらっしゃるでしょう。そこは、敵の霊が働いてきた環境があるからだと思います。私の場合もそうでした。
そこに対して、よい解決方法があります。それは、ヨシュア記1:5、詩編1:2にあるように、古代イスラエルの民にならって、毎日みことばを淡々と口ずさむことです。1日30分以上。来る日も来る日もみことばを口ずさみます。それについては、こちらの投稿で書きました。ごくごく簡単なこと。みことばを、ひたすら愚直に毎日口ずさんでいくことで、霊としてのみことばがこの世から来た不信仰などを洗い流して、素朴に信じることができるようになります(エペソ5:26)。
天の父の御子であられるイエスが、その人を自由にしたのなら、集団支配と村八分の霊であれ何であれ、その人は自由なのです。天の父は存在しているものすべてをお造りになった方です。御子は万物を力強いみことばによって保っておられます(ヘブル1:3)。このことを否定できるサタンも悪霊も存在しないのです。信じて、そのことを言えば、それが成就するのです。イエスの権威によって、サタンも悪霊も一掃されるのです。
みことばであられる主イエス・キリストにハレルヤ!