賛美の中に主が降りてこられる、という信仰があります。
その信仰に基づき、賛美に一生懸命に取り組みます。
主には、以下の詩編を元にした信仰です。
(信仰はすべて、聖書の言葉に基づきます。)
けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
(詩編22:3)
私が時々参加させていただいている水曜日夜の祈祷会では、夜7時から始まって9時半に終わるまでの間、半分近く賛美を続けます。
賛美は聖霊に深く関わり、聖霊が満ちて賛美が主の喜ばれるものになるまで、ウォーミングアップのような時間がかかるようです。15分程度、賛美を続けていると、内側では聖霊に満たされます。また、外側では主の臨在を感じる時があります。さらに賛美を続けていると、会堂内に主が満ちているような感じになります。まさに、イスラエル(主イエスを信じる人々)の賛美の中に主が住まわれる、という状況が生まれます。
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こういう状況は、第二歴代誌の5章にしっかりと描かれています。
賛美隊の賛美によって、主の栄光が満ちたという記述です。
祭司たちが聖所から出て来たとき、――列席したすべての祭司が各組の務めの順序にかかわらず身を聖別した。
また、歌うたいであるレビ人全員も、すなわち、アサフもヘマンもエドトンも彼らの子らも彼らの兄弟たちも、白亜麻布を身にまとい、シンバル、十弦の琴および立琴を手にして、祭壇の東側に立ち、百二十人の祭司たちも彼らとともにいて、ラッパを吹き鳴らしていた――
ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。
祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。
(第二歴代誌5:11-14)
「祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。」とありますから、会堂内に満ちた主の栄光の力強さは、言葉では言い表せないほどのものであったと思います。
これほどのものにならないまでも、一人で祈る時にも、賛美を15分程度続け、さらにそれ以上続けていると、主の臨在が満ちる時があります。
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主の臨在がある中で祈る祈りは、天で執り成しておられる主イエス・キリストに直結するような思いがします。
いつもは内なる聖霊に何かを尋ねているところを、イエス様に直接聞いてみてもいいでしょう。
確実に、神との関係は近くなっています。そういう中で、何かを尋ね、それに答えていただく。そうしたことが可能になります。
わたしに思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かすため、あなたのほうから述べたてよ。
(イザヤ43:26)
ハレルヤ!