今回の台風19号により被害に遭われたお一人おひとりに、心からのお見舞いを申し上げます。
現在の必要がすべて満たされますように、主イエスの名によって、天の父に求めて祈ります。
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最終的に神が望んでおられることは、主イエス・キリストの下にすべての人が集まって、主イエスの名によって、父なる神の栄光をほめたたえることです(ピリピ2:9-11)。すべてのものは、それに向かって進んでいます。万物も歴史も人も、それに向かって突き進んでいるのだと言えます。いまは過渡的な状態です。
最終的にそこにたどり着くのだとしても、人間は生きていますから、その過程で様々な出来事に遭遇します。出会いがあり、別れがあります。命が生まれ、眠りにつく人がいます。愛があり憎しみがあり、戦いがあり和解があります。富む時があり、貧しい時があります。順調な時があり、不遇な時があります。
神は、すべてを造られた神ですから、そうした一つひとつの状況に置かれた人間のことは、すべてわかっていますし、見ています。神の目に漏れない人はいません。
また、神の基本的な姿勢は、愛という一言に尽きます。常に手を差し伸べています。人間がそれがわからない、それに気づかないというだけです。
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神の愛は、父と子として存在しているご自身のうち、子であるイエスを、すべての人間が頼りにできる、唯一のよすがとしてこの世に送って下さったことに現れています。
子であるイエスを唯一のよすがとして依り頼めば、父としての神が救い上げて下さるという関係があります。
ただひたすらに、子であるイエスにしがみつくのです。
そうすれば、父なる神がすべてをよくして下さいます。
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
(ヨハネの福音書14:6)
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子であるイエスを唯一の道、真理、いのちとされた父なる神のご意図は、人間が窺い知ることができないほど深いものであって、ただひたすらにイエスを打ち出すことで、イエスを受け入れる人と受け入れない人ととを、見分けるという意味があるようです。これは、父である神が、子である神のイエスとともに永遠におられ、その永遠に人間が入っていくに当たって、子である神イエスを信じる人のみが、父と子の関係に迎え入れられるという、そのように主イエスを一つの関門としているということがあるようです(第一コリント1章〜2章)。
どのようなルートで天地万物を創造された神に近づこうとも、子であるイエスを通じてでなければ、神の元には行けない。そういう約束が、聖書にははっきりと書かれています。
従って、苦しい時に神に祈る際にも、まず、子であるイエスに依り頼むのです。
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子であるイエスに依り頼む時のポイントは、2つあるようです。
1つは、イエスを、父なる神が送られた子としての神であることを認め、自らの唯一のよすがである「主」(英語でLord、自分を保有するあるじという意味)であると信じること。
イエスは、日本で生まれて教育を受けてきた人には理解しづらい(元々はユダヤ的な歴史と宗教の文脈で生まれてきた救世主であるため)ところがあり、イエスがどんな役割を負っていたのかを理解するには、少しの勉強が必要です。それについては、現在ではこのインターネットにたくさんの教えや資料がありますから、それらを見ていけばすぐに把握できるでしょう。
イエスを受け入れるとは、イエスが「主」であることを認めると同時に、イエスが十字架に架けられて死に、三日目によみがえったということを信じること。そうしてそれを口で言い表すこと(「信仰告白」と呼ばれます)。そういうことなのです。これは、日本人としては、文化的宗教的な土壌がユダヤ的ないし旧約聖書的なものではありませんから、当初はわかりづらい。しかし、わからせることを手伝ってくれるものがあって、それが聖霊です。聖霊の助けがあるから、このことがわかる。これは神の助けです。
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もう1つは、言葉として存在している神でもある主イエス。その言葉にすがっていく、依り頼んでいく、ということでもあります。
主イエスを信じること、イコール、主イエスが言った言葉を信じること、および、主イエスに関する神の言葉を信じること、でもあります。
神は、言葉として、人間に現れます。アブラハムに最初に神が現れた時、言葉として現れなさいました。
モーセに現れた時にも、神は言葉によって、モーセに語りかけられました。
そうした神の言葉。言葉として現れる神。
それが最も集約されたものが、イエス・キリストという存在です。イエス・キリストは子なる神でありながら、人間の肉体を持ってこの世に遣わされ、同時に「神の言葉」でもあるという側面も持っています。
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――
(第一ヨハネ1:1-2)
ヨハネの福音書やヨハネの手紙(第一〜第三)を書いたヨハネは、間違いなく、歴史的に肉体を持って存在されたイエス・キリストのおそばにて、その言動に接し、付き従って歩いた弟子である考えられます。その彼が、「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」と書いています。つまり、「じっと見、また手でさわった」存在である、肉体を持ったイエス・キリストが「いのちのことば」であると書いているのです。これには深い意味があると考えるべきです。
肉体を持ってこの世に降りてこられたイエス・キリスト、イコール、いのちのことば、なのです。
これもまた聖霊の助けによって、理解するべき事柄だと思います。
みことばに関する事柄、主イエスに関する事柄の理解は、聖霊が助けて下さいます。聖霊が助けて下さるとは、そこに神の力が働くということです。
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従って、苦しい時に神に祈るとは、主イエスを信じて、みことばによって、神に祈るのです。
みことばによって神に祈るとは、自分がよすがにできる聖書のことば、イコール、みことば、と呼んでいますが、そのみことばを聖書から探してきて、自分のものにして祈るのです。
自分のものにするとは、信じられるみことばを見つけて、それを自分に引きつけて、何度も口で言って、それを信じて、そうして、天の父に祈ります。
祈る時は、例えば、このような祈りの言葉になるでしょう。
天の父よ。あなたがこの地に送られた主イエスに寄りすがって、お祈りします。
聖書のみことばには、○○○○○○○○○○と書いてあります。ですから、そのことを私にもなさって下さい。聖書に書いていあるお約束を、私にも果たして下さい。イエス様のお名前によって、祈ります。
例えば、ということで記しました。
祈りの言葉は、色々です。
聖書で書かれている、祈り方の基本は、第一に、主イエスの名によって祈ること。第二に、天の父に向かって祈ること。第三に、信じて祈ること。この3つです。
その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
(ヨハネの福音書16:23-26)
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詩編には、どうしようもなく苦しい時に、神に対して、どのような叫び声を上げて祈ればいいのか、その見本となるような編がいくつかあります。
詩編作者は、ダビデ以外にもいるようですが、ほぼすべてはダビデの作だと考えてよいでしょう。
サムエル記、列王記、歴代誌に記されているダビデの生き方は実に多くのものを含んでおり、きわめて人間らしい罪や弱さや敗北を経験しています。そういう中で作られた詩がいくつもあります。
詩編18
詩編22
詩編31
詩編38
詩編102
私がわかる範囲では以上のものがあります。
これらを読むと、ダビデが実に人間らしい、弱さを持った存在であることと、神に泣き叫んでいることとがわかります。
祈りの中では、神に泣き叫んでもよい。そういうことが、このダビデの詩編からわかるのです。
泣き叫んで祈る時に、子である神のイエス・キリストをよすがとし、イエス・キリストのみことばをよすがとするのです。
神は、人間の弱さの中で力を発揮されるということが、聖書には書いてあります。
神は、人間が弱いこと、罪を犯すことを、重々知っておられます。
人間が神から離れることがあるということ。
人間が神を忘れることすらあるということ。
それらも、しっかりと理解されておられます。
その上で、それらをすべて帳消しにする存在として、十字架のイエスを与えられたのです。十字架のイエスがどれほどのものを帳消しにされたのか、そのことがわかってくると、もはや言葉もありません。
そうして、人間の弱さのまっただ中で、主イエスをよすがとして神に祈る時に、神は力を出して救い上げて下さいます。
どういう苦しい時も、その苦しさをすべてわかっておられます。なぜなら神だからです。
なので、人間ができることは、子である神イエスをひたすらに頼って、父なる神に祈ることです。そうすれば、すべてを見ておられる父が、子のゆえに、引き上げて下さるのです。
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
(第二コリント12:9)
したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
(ヘブル7:25)