モーセに与えられた十戒では、神の名はみだりに口にしてはならないものでした。
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
(出エジプト20:7)
従って、このモーセの律法の下にあった時代、神の名を記す必要がある場合には、「読んでも発音できない書き方」で記されていました。それが、ヘブライ文字の四文字、テトラグラマトンと呼ばれている書き方です。英語のアルファベットに直すと「YHWH」。これは子音が四文字連なったものであり、母音がないため、そのままでは発音できません。ある種の暗号のような書き方です。それだけ神の名は神聖なものであったのです。
考えてみて下さい。神の名を知らない時に、神をどうやって呼べばいいでしょうか?
この時、すでに神は、後に「イエス」という名の御子を救い主として地上に送ることを定めておられたようです。名前のある、自分の子としての神を人々の救いのために送ることを、ご計画の中に備えておられたと思われます。
なぜなら、新約聖書のエペソ人への手紙の中で、御子イエスによって救われる人たちは、天地創造がなされる前から神のご計画のうちに選ばれていたということが、はっきりと書かれているからです。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
(エペソ1:4)
つまり、モーセに与えられた十戒で、神の名を口に出すことがきつく戒められたのは、後の時代に、イエスという名の、子としての神をお送りになるご計画が前提にあったからだと解釈することができます。
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旧約聖書の「YHWH」は、その後の研究によって、母音を組み入れて「ヤハウェ」(Yahweh)、ないし「エホバ」(Jehovah)と書き記す慣行が生まれました。一方で「主」(LORD)と書き記す聖書翻訳もあります。
日本でも文語訳聖書では、現在の翻訳で「主」(新改訳では太文字の「主」)と訳されている旧約聖書の神の名を「エホバ」と記していました。聖書翻訳者の解釈により、いくつかの記載方法があるということです。
わかりやすくするために、まず英語訳で整理しましょう。28の英語で翻訳された聖書を並行的に比較できるBible Hubで確かめてみます。現在、米国の多くの教会でスタンダードな翻訳として使われているNew International Version、ある時代まで英語翻訳聖書の基準となっていたKing James Bible(King James Version)など、28の聖書の翻訳がどうなっているか、一覧的に確認することができます。(なお必要があればヘブライ語原典に飛んで、ヘブライ語の記載を確かめながら、1つひとつのヘブライ語のわからない意味をヘブライ語・英語辞典で確かめて、原義を理解することもできます。)
・Yahwehと書き記す翻訳:28翻訳中、World English Bibleのみ
・Jehovahと書き記す翻訳:28翻訳中、American Standard Version、Darby Bible Translation、Young's Literal Translationの3つのみ
・LORDと書き記す翻訳:New International Version、King James Bibleなど、残りの24
なお、確かめた箇所は、創世記の中で一番最初に「主」が登場する創世記2章4節。(今回初めてわかりましたが、創世記では最初に「主」が登場する時の表現が「神である主」であり、その形の記載が19箇所、創世記2章から3章までずっと続いています。その後で初めて単体としての「主」という記載がなされます)
そうしてもう1箇所、「主」と単独で記載される一番最初の創世記4章1節。この2箇所で確かめています。
聖書のヘブライ語原典では、YHWHの他に、Adonaiという言葉も用いられています。YHWHという神の固有名詞を述べる必要がある箇所で、この固有名詞に代わる別な言い方という位置付けで用いられています。
Adonaiもまた、日本語の旧約聖書の翻訳では「主」と訳されています。英語では、大文字と小文字を組み合わせた"Lord"です。(Adonaiの意味は文字通りの「主(あるじ)」で、下位にある人から見て主人、あるいは妻である人から見て主人、という文脈で使われる「主」です。)
英語で整理すると、大文字だけで記されている"LORD"があり、それはヘブライ語原典では"YHWH”というヘブライ文字で記載されているところ。
大文字と小文字を組み合わせた"Lord"があり、それはヘブライ語原典では"Adonai"というヘブライ語が使われているところ、となります。
英語での発音は、どちらもカタカナ表記すれば「ロード」です。LORDもLordも読めば同じ音です。
日本語の旧約聖書に記載されている「主」は、YHWHの箇所が太文字の「主」、Adonaiの箇所が普通文字の「主」(いずれの新改訳の場合)。発音すれば同じ「しゅ」です。
ややわかりにくいですね。この背景には何があるのでしょうか?
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私は研究者ではありませんので、過去に伺った複数の先生の発言や、インターネットで確認できる文書などを総合して、その背景をまとめると…。
・イエス様の時代、また、パウロの時代、ギリシャ語を使う人たちの間では、ヘブライ語旧約聖書原典をギリシャ語に翻訳した、いわゆる「七十人訳聖書」(Septuaginta)が使われていた。ペテロやパウロはユダヤ人であったが、旧約聖書を引用する際にはこの七十人訳聖書(ギリシャ語)を用いていた。参考資料はこちら。
・七十人訳聖書が翻訳されたのは、紀元前3世紀中頃から紀元前1世紀までの間。イエス様や使徒たちが登場する前の時期。
・モーセ五書(創世記から申命記まで)が書かれてから、その頃に至る長い年数を経る過程で、YHWHとして記載されていた神の固有名詞を「口にして発音すること」はユダヤ人(聖職者)の間で厳しいタブーとなった。それほどまでに、神の名は畏れ多いものだった。YHWHと記されるべき箇所が、空白になっていたり、点で表記される例もあったとのこと。誰も神の名を口にしてはならないという、強い信仰の表れ。
・代わって、親しみやすい、誰もが口にできる別称として「あるじ」という意味のヘブライ語"Adonai"が用いられるようになった。元々"YHWH"と記されていた箇所に母音を加えて発音することはなく、代わりに"Adonai"と読み替えていた。つまり、YHWHという固有名詞の代わりに、「あるじ」という意味のAdonaiを当てて読んだ。
・"Adonai"は、ギリシャ語では"Kurios"。意味は同じく「あるじ」。七十人訳では、ヘブライ語原典で"Adonai"が使われている箇所は"Kurios"として訳された(例えば詩編2:4)。
・最終的に七十人訳では、原典の"YHWH"の箇所も"Kurios"(あるじ)として訳され、"Adonai"の箇所も"Kurios"(あるじ)として訳された。
・従って、イエス様が現れた時代には、ギリシャ語を使うユダヤ人は、神の名を呼ぶ時には固有名詞は使わずに「あるじ」という意味の"Kurios"を使っていた。
・それがギリシャ語で書かれた新約聖書の「主イエス・キリスト」の「主」(Kurios)。
・旧約聖書のYHWHの翻訳に使われたKuriosではなく、Adonaiの翻訳に使われたKuriosが「主イエス・キリスト」の「主」。
以上は、こちらを参考としています。
まとめれば、神の固有名詞であるYHWHは、発音することがタブーとされる長い歴史の中で、ヘブライ語のAdonaiと読まれるようになった。ヘブライ語の旧約聖書がギリシャ語に翻訳される際に、Adonaiの箇所にKuriosが用いられた。
現在我々が手にする旧約聖書では、YHWHのところも、Adonaiのところも、同じ「主」と訳されている。その背景は、七十人訳の時代に、どちらも"Kurios"と訳されていたから。Kuriosは日本語に直せば「主」。
なお、補足しておくと、日本語で一般名詞として言う「神」は、旧約聖書ヘブライ語の場合は「エロヒム」(創世記2:4「神である主」の「神」が一例)。新約聖書ギリシャ語の場合は「テオス」(ローマ1:1など)です。
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さて、このような歴史的な背景を踏まえた上で、もっとも大切なポイントを確認すると、旧約聖書の時代、すなわち、イエス様が現れる前の時代には、神の固有名詞は、誰も発音してはならないものだったということです。
そういうところに、「イエス」という固有名詞を持った「子としての神」が現れた。それが、当時のユダヤ人社会に与えた衝撃です。
旧約聖書で、いつの日にか、救世主(メシア)が現れることは預言されていました。当時のユダヤ人全員が、いつかメシアが登場することを信じていたということは、福音書の行間から読み取れます(ヨハネ1:41、4:25)。
それが小村ナザレ出身の「イエス」という人であることは、盲人の目を開けるなど奇跡的な病の癒しを目の前で見たか、力強く悪霊を追い出す業を目の当たりにした人でなければ、受け入れにくいものだったでしょう。
パウロはこの名こそが神の名であり、すべての名の上に高く置かれた名であると書いています。(以下のみことばで「キリストのうちに」、「キリストを」と書かれている部分は、冒頭の「主イエス・キリスト」の「イエス」を内に含んだ書き方です。)
どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
(エペソ1:17-21)
同じことが、以下でも書かれています。パウロは、新しい契約の信仰を確立した筆頭の弟子と言っても過言ではなく(新約聖書の半分は彼の書簡です)、そのパウロが「すべての名にまさる名」、つまり、私たちが口にできる唯一の神の名が、キリスト(救い主)としての「イエス」だと言っているのです。
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
(ピリピ2:5-9)
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従って、イエス様が、「これからは、私の名によって祈りなさい」と教えられた時、弟子たちは歴史上初めて、神の固有名詞によって祈る方法を教えられた、ということになります。
その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。
その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
(ヨハネの福音書16:23-26)
この部分では、イエス様は、私の名によって求めなさい、ということと同時に、私は子であり父がおられる、ということも並行しておっしゃっています。
子である神としての自分自身を証しすると同時に、父である神の存在を教えています。
これも当時のユダヤ教社会では、衝撃的な教えだったでしょう。
YHWHとして記され、誰も口にして名前を呼ぶことができなかった畏れ多い神を「私の父」であり「あなた方の父」であると明言したのですから、きわめてセンセーショナルな内容を持っていたと思います。特に、ユダヤ教の教義や祭儀を司っていた大祭司や祭司のコミュニティには、受け入れられるものではなかったでしょう。福音書に記されている大祭司、祭司の反応はそれを物語っています。
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「イエス」という固有名詞のヘブライ語の大元の名前(Yeshuaの原型であるYehoshua)には、父なる神であるYHWHの文字の要素と、「お救い下さい!」と叫び求める意味の2つが組み合わさっているそうです(The name Yehoshua has the form of a compound of "Yeho-" and "shua": Yeho- יְהוֹ is another form of יָהו Yahu, a theophoric element standing for the name of God יהוה (the Tetragrammaton YHWH, sometimes transcribed into English as Yahweh), and שׁוּעַ shua‘ is a noun meaning "a cry for help", "a saving cry", that is to say, a shout given when in need of rescue.)。
双方が合わさって「YHWHよ、お救い下さい!」という意味になります。これが、御子の名Yehoshuaが元々持っている意味です。子の名を呼べば「父よお救い下さい!」という意味になるのです。
YHWHとして記されてきた神が「父」であると証しし、子である自らは「父よお救い下さい!」という意味の名だと証しされた。そういう名前によって祈りなさい、と教えておられるのです。
イエス様が、ご自身の名前によって祈りなさいと教えておられる背景には、それらのことがあります。
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御子イエスの出現以降は、旧約でYHWHとして現れた神は、YahwehないしJehovahのような呼び名を求めているわけではないと思います。
それよりも、御子の教えに従って 「イエス」という名によって「父としてのご自身」に祈ることを、よしとされているようです。言い換えれば、YHWHの発音がどのようなものであったか、御子イエスが名を証しされた後では、気にする必要はないのです。英語でLORD、日本語で「主」という、現在の翻訳の言葉でよいと思われます。
というのも、ヨハネの福音書には複数箇所、子であるイエスの名によって祈ることによって、父なる神が栄光をお受けになるという記述があるからです。お父さんですから、息子が大いに尊ばれているところを見て、お喜びになるわけです。そういう文脈だと思います。
パウロ書簡にある通り、子の名前こそが大切なのです。
そうして、子の名で祈れば、父に呼び求めたことになるのです。