日曜投稿:霊としての神に祈り、霊としての神に交わる | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Damian Gadal

 

普通の日本語でもよく「霊的」ということを言いますが、多くの場合は、聖書的な意味ではなく、聖書で言う霊=御霊=聖霊とは異なる霊のことを言っています。

聖霊ではない霊はすべて、聖書的に言えば悪霊。

悪霊の発端は、天の御使い(=天使)のうち、プライドを高くして自分も神のようになれる、自分は神よりも優れていると考えた御使いが、天から落とされて、堕天使となった、その堕天使がサタンとも書かれている、悪魔とも書かれている存在です。

この悪魔が自分の仲間の御使いを引き連れて天から落ちたので、1/3の御使い、大変におびただしい悪魔が、地の上やいわゆる第二の天と呼ばれる領域で動いています。その悪魔の下位に存在する汚れた霊が悪霊です。悪魔の言うことを聞く、人の中に入って、悪い考えを持たせたり、悪い考えに染め上げたり、悪魔の思惑を人に行わせたりする霊です。最近の大変に痛ましい事件のほとんどには、この、悪霊が関わっていると考えています。論理では説明できない出来事。人の感情や人の考えからは出てこないような行動。そうしたものの多くには、悪魔の配下にある悪霊が関わっています。嘆かわしいことです。

昨日、1937年の日本軍南京入城の際の惨劇を、当時、南京に居住していた西洋人宣教師が自らフィルムに収めた歴史的に確からしい資料を元に説明している記録映画をYoutubeで見ました。大変に痛々しい、大変にむごたらしい行動を、記録として収められた資料の中の日本軍の日本人が行なっていました。
このことも、天皇が神であると言う偶像礼拝の影響下で、悪霊がはびこりやすい状況において、人が、真の神、すなわち、天の父や御子イエスに聞かずに、別なこの世の神に聞いている状況において、何かのきっかけがあれば悪霊が大暴れをして人々を動かし、およそ、常識では考えられないような行動に駆り立てる、そうしたことの一例だと考えられます。

この世における悪魔の活動、悪霊の活動が、聖書的にどのように説明できるかは、稀代の聖書学者でもあったデリック・プリンスの以下の動画がよく説明していますから、一度、ご覧になることをお勧めします。このことは残念ながらほとんどの教会では教えられていないです(牧師を養成する多くの神学校でこのトピックを取り扱わないため、牧師が教えられないと言う図式があります。ルターの時代に遡ってそのことがあります)。聖書に人一倍通じており、聖書のみことばからのみ説明するのがデリック・プリンスの特徴です。頭が下がります。


 



聖書で言う「霊的」とは、聖書のみことば100%、混じり気なく、聖書の教えに合致していると言うことです。

以下のコロサイで、パウロは「霊的な知恵と理解力」という言い方をしています。これは、主イエス・キリストの福音と信仰に合致し、聖書のみことばの教えと預言に合致し、主イエスを介して豊かに働く聖霊の導きに合致し、聖書のすべての預言に合致している知恵と、それに関する理解力ということです。それはまた、御霊による愛に裏打ちされてもいます。

これはあなたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです。彼は私たちに代わって仕えている忠実な、キリストの仕え人であって、
私たちに、御霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました。
こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。
また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。
また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、
また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。

(コロサイ人への手紙1:7-12)

従って、この世の言葉で言う「霊的なスポット」などと言う時の「霊的」という意味とは、まったく、実に完全に、異なります。そこは注意が必要です。
聖書で言う「霊的な」事柄を経験的に理解できていないうちは、両者の「霊的」を混同することがあり、世の中で言う霊的な事柄を、聖書で言う霊的な事柄の延長で考えて、理解することが多々あります。

これは、聖書で言う御霊のことは御霊によって理解するという、以下のパウロ書簡にある同語反復的なことがあるため、仕方がないと言えば仕方がないです。

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
(第一コリント2:14)

従って、みことばによって自分を一定期間洗い続けるとか、イエスの血を自分の霊、魂、肉に適用し続けると言った、清められることを続けていく中で、聖霊に満たされ、主の臨在に覆われて、聖霊とはこういうものである、ということを経験する中で、その真実を理解していくことが必要になると思います。

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
(ローマ人への手紙8:9)

主は御霊であり、イエス・キリストは霊の世界に属しています。イエスに近づくとは、霊の中において近づくということです。

この、主イエスに対する霊的なアプローチ、および、御子イエスを通じた天の父に対する霊的なアプローチを助けて下さるのが、聖霊です。

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
(ヨハネの福音書16:13)



聖書には、神に近づきなさいということが、明確に書かれています。

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。
(ヤコブ書4:8a)

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
(ヘブル人への手紙4:16)

これは、我々が、神に近づくことができるということを教えています。
神に近づくことができれば、神と心を通わせることができ、神とコミュニケーションをすることができ、神に願い事を知っていただくことができて、それをかなえていただくことができます。

詩編には、詩編作者が神との交わりの中ですばらしい時間を過ごすことの表現があります。

私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。
(詩編27:4)

これは、神である主(YHWH、Yahweh。新改訳で大文字の「主」と書かれている存在)に近づき、主の中に入り、その中で永遠の時間の交わりをする、そのすばらしさを言っているのだと思います。人間の言葉では書き表しにくい事柄だと思います。

同じことは、新約聖書の天の父と御子イエスとの交わりという形で、ヨハネの手紙第一にも書かれています。

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
(ヨハネの手紙第一1:3)

この交わりとは、ヨハネの福音書14章と15章に繰り返し記されている、御子イエスから見た天の父の存在。そこにある御子イエスの父に対する愛。また、証言されている天の父の御子に対する愛。その愛の中に、私たち信徒も入っていくことができるということを示しています。

このことは、霊において、可能になります。
主は御霊です、とある通り、イエス・キリストは、再臨される前の現在の状態では、霊として存在しておられます。霊は目には見えません。しかし、聖霊に導かれるなら、その豊かな実体が生き生きと展開します。



では、どのようにして、霊において、神に近づくことができるのか?
ヘブル書では、大胆に神の御座に近づきなさいと勧めています。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
(ヘブル人への手紙4:16)

いくつかの事柄を整理する必要があります。

1. 御子イエスは、「唯一のまことの神」は天の父であるとおっしゃっていること。天の父と御子イエスとの関係を、改めて、聖書のみことばによって理解し直す必要があるということ。(両者の関係を、父に対する息子、息子から見た父という関係で理解し直すこと。そうして両者の間の愛を汲み取ること。その中に入れていただくこと)

イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

(ヨハネの福音書17:1-3)


2. 霊とまことによって礼拝すべきは、天の父であること。
主イエスが以下で「真の礼拝者」とおっしゃっていますから、真の礼拝とは、霊とまことによる、天の父に対する礼拝です。

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

(ヨハネの福音書4:23-24)


3. 天の父を礼拝し、天の父に近づき、天の父に祈るためには、御子であり主であるイエス・キリストを通じてのみ可能になるということ。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
(ヨハネの福音書14:6)

どのような意味でも、主イエス・キリストを通じてでなければ、真の神に近づくことはできません。それは、主イエス・キリストの十字架の贖いを自分の身に受けるということでもあり、主イエスとともに十字架に付けられて古い人が霊的に死に、主イエスとともに新しい人として霊的によみがえって、御霊によって歩む人となる、ということとも同意です。
これがあることで、天の父に対する霊とまことの礼拝ができるようになり(それは主イエスの名によってです)、天の神に近づくことができるようになります。


4. 主イエスは大祭司であられ、私たち主イエスを信じる者は「王である祭司」(新改訳)ないし「王の系統を引く祭司」(新共同訳)であるから、大祭司であられる主イエス・キリストを通じて、祭司として、神に近づき、祈ることができるということ。

大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。
彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。
そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。
まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。
同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われた方が、それをお与えになったのです。
別の個所で、こうも言われます。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」
キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。

(ヘブル人への手紙5:1-7)


5. 大祭司である主イエスを通じて、天の父を礼拝するということは、主イエスはみことばでもあられるので、日頃からみことばを守るという姿勢につながり、それによって、天の父も御子イエスも、私たちのところに来て一緒に住んでくださるということ。

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
(ヨハネの福音書14:23)


6. 私たちが神の神殿であるということ。

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

(第一コリント3:16-17)

神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。

(第二コリント6:16-18)

つまり、主イエスを愛する者は、みことばを守る。みことばを守るとは、ギリシャ語の原義を確かめれば、みことばが実を結ぶように見張り、みことばが身を結ぶことの邪魔をする敵の霊からガードするということ。そういうことを常に行っていれば、主イエスを愛することになり、そういう人を天の父も愛して下さって、父と子が一緒に自分のところに来て一緒に住んでくださる。
その一緒に来て住んでくださる状態が「神の神殿」であるということ。

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
(ヨハネの福音書14:23)


7. 神のうちにいるということは、聖霊=御霊によるということ。聖霊=御霊に満たされることでもある。聖霊=御霊によって歩むということでもある。

神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。
(ヨハネの手紙第一4:13)

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
(ローマ人への手紙5:5)


8. 聖霊は、私たちに、みことばを常に思い起こさせて下さるということ。聖霊はみことばとしてのイエス・キリストと不即不離だということ。

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
(ヨハネの福音書14:26)

霊としてのみことばを大切にし、詩編1にあるような、毎日繰り返し唱えるということをしていると、それが聖霊と親しく交わることにもなる。そこに、御子イエスも、天の父も一緒に来て下さって、私たちの内なる神の神殿に住んで下さる。



ということで、まとめれば、非常にシンプルなところに帰着します。

すなわち、みことばを守るということです。

この守り方は、人それぞれが置かれた状況によって、様々な形になるでしょう。
上でも書いたように、ヨハネの福音書14:23にある「守る」のギリシャ語原義は、見張る、ガードするという意味あいがあります。これは、以下で、主が、みことばを見張っているのとまったく同じです。

すると主は私に仰せられた。「よく見た者だ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。
(エレミヤ書1:12)

神は、そのみこころを、ことばとして発します。創世記の冒頭にあるように、です。
また、神の言葉を聞いて従うことが、信仰の父であるアブラハムにならう者の基本中の基本です。神の言葉を聞いても従わないことには、申命記28章にあるような呪いが臨みます。聞いて従う者には、同じ28章の最初にあるすべての祝福が臨みます。

聞き従わないことは占いの罪であるということが、サムエル記第一15:23にあります。

どのような意味でも、神は、みことばであられるのです。
イエス様ご自身が、自分で語っているのは自分の言葉ではなく、父の言葉であるとおっしゃっています。父の御心が父の言葉となり、それが子であるイエスの口から、みことばとして出てきます。イエスを愛することは、みことばを愛すること。みことばを愛することは、みことばになれ親しみ、口ずさみ、それを守り、敵を遠ざけるということ。
それが霊とまことの礼拝にもつながり、唯一のまことの神であるとイエス様がおっしゃっている天の父に近づくことにもなるということ。

いくつかのみことばを繰り返し繰り返し唱えることは、祈りとしての性格も持つのだということを最近知りました。そうしてそれを実践しています。

みことばはイエス様がおっしゃっているように、霊でもあり、いのちでもあります(ヨハネ6:23)。

使徒の働きでは、初代教会の人たちがみことばをいかに大切にしていたか、いやむしろ、みことばこそが活動の根幹であったことが、「みことば」で検索してみると、よくわかります。実に記述が多いです。

みことばは霊であるため、みことばに沈潜することは、霊に沈潜していることになります。
この霊とは、聖霊であり、御霊です。

私はまだ、聖霊であり御霊であるもののすべてがわかっている訳ではありませんが、祈りの中で、御子イエスと親しく交わり、その延長で、神の子どもとされて、天の父と親しく交わるということは、何度も経験させていただいています。まことに感謝なことです。ハレルヤ!
その時には、濃密な霊の満たしの中にいます。
この霊の満たしが、聖霊であり、御霊であるのだということに、だんだんと気づいてきました。御霊は一つだからです(エペソ4:4)

霊であるみことばに集中し、みことばを繰り返して唱えることが、霊としての祈りにもなっていく。その中で、聖霊に満たされ、自分のところに一緒に来て住んでくださっている御子イエス、および、天の父と交わる。内なる神の神殿において、あるいは、まことの聖所において(ヘブル10:19)、大胆に神に近づく。大祭司であられる主イエスに導かれ、天の父に近づく。恵みの御座に近づく。そこで、天の父と御子イエスの愛の関係に交わる。詩編の中でダビデが経験していたような思いにふける。

そうしたことが、みことばに集中していくことで開けていくのです。