人間の愛は不完全なところがあるので、多くの場合は、傷つく経験が伴うのだと思います。自分の周囲の人たちも人間ですから、そこには不完全さがあり、おそらくはほとんどの人は、本当の愛を知らずに大人になると思います。
神は何もないところから天地万物を創造した完全な方ですから、その愛にも、人知をはるかに超えた広がりがあり、豊かさがあり、あたたかさがあります。もしこれを経験することができるなら、その愛は、何にも代えられないほどすばらしいと思うことでしょう。
ヨハネ第一には、御父と御子の愛の交わりが書かれています。
私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
(ヨハネの手紙1:3)
新約聖書では、イエス様の口から「天の父」の存在が明らかにされました。弟子から祈り方を聞かれて、イエス様がお教えになったのは、いわゆる主の祈りです。主の祈りは、マタイの福音書6章とルカの福音書11章に記されています。この中で「天にいます私たちの父」に祈ることが示されています。「います」とは漢字で書くと「在す」。「いらっしゃる」という意味の尊敬語です。
また特に、ルカの福音書11章では、ストレートに「父よ」と呼びかけなさいと、イエス様が教えています。
主の祈りは、多くの教会で祈られている祈りであり、祈りの基本です。前半の3つの要素と、後半の3つの要素から成り立ちます。特にキリストを信じる者が留意すべきは、前半の3要素において自分たちについてではなく、神に関することが祈られている点です。神への賛美があり、神の国が来ることに関する願いがあり、神の御心が地上でなされることへの願いがあります。私たちの救いは神にかかっているので、神に関することを祈りの中に含めることは、大変に重要です。自分のことだけを願うのではなく、神が喜ばれる内容を祈りに含めるのです。賛美であり、感謝であり、神の国のことであり、御心のことです。
こうした祈りを「父よ」と天に向けて祈るのです。
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新約聖書を素直に読むと、私たちが神の子どもになれることが何箇所かに書いてあります。
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
(ローマ人への手紙8:14)
素直な信仰をもってこれらのみことばを受けると、私たちは神の子どもになります。天の父が、本当の自分のお父さんになります。そうして、お父さんの愛の中に入ることができるようになります。ちょうど、イエス様のたとえ話にある放蕩息子を迎え入れた父の愛そのままの愛を、経験できるようになります。(放蕩息子のたとえ話は、ルカの福音書15章11節以下にあります)
立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
(ルカの福音書15:18~20)
このたとえ話は、神から外れて生きてきた人が、ある日我に返って、神のところに行って膝まづこう。そうして罪を赦してもらおうと決意をする。そうした時に何が起こるかを示しています。
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ヨハネの福音書の冒頭にも、私たちが神の子どもになることができると書いています。
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
ヨハネの福音書 1章9~13節
天の父の子どもになることは、御子イエスを通じて。御子イエスを自分の救い主であると信じる信仰を通じて起こります。それが神のわざとして起こります。人間の努力によってではなく、神からの恵みとして、贈り物として起こります。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」この一節は「その名」と「特権」について、補足が必要でしょう。
「その名」とはもちろん「イエス」という名のことですが、その「イエス」とは、当時たくさんいた同じ名前のイエスという人のことではなく、神の子としてこの地上に来られ、福音を宣べ伝えて、十字架に犠牲として付けられて死なれ、人知をはるかに超えた神の力によって三日目によみがえった、特別なイエスのことです。そのイエスを信仰をもって信じることが、その名を信じるという意味です。イエスの名を言う時には、神が死からよみがえらせて下さった神の御子であるイエスという、極めて特別なイエスのことを、信仰によってその名と結びつけて言います。
そのようなイエスを信じることで、神の子どもとなるのです。天の父に対して御子であったイエス。神の御子として天の父の命令に忠実に従い、自分の命を差し出して十字架にかかられたイエス。御父と御子のこうしたやり取り。そこにある父と子の愛の関係。それを踏まえた御子イエスです。
「特権」として使われているギリシャ語原典の言葉「エクソーシア」を調べると、噛み砕いた意味は次のようになります。「神が信仰を持つ人に授けた権威」および「神の言葉を信じる信仰によって行動することを神が認めること」。これを基にすれば、『私たちが神の子どもである』と信じて行動できる権利」となるでしょう。
平たく言えば、天の父の子どもとして、「お父さん、今、私に必要なものを与えてください」と、素直にお願いできる権利です。これと同じことをイエス様もおっしゃっています。
その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
(ヨハネの福音書16:23)
御子イエスの名を信じる信仰をもって、天の父に、「お父さん」と求める時に、天の父が何でも与えて下さる、そういう特権があると、イエス様がおっしゃっています。平たく言えば、イエス様が天の父に求めていたように、私たちも求めていい、ということです。
ここにあるのは、御子イエスを信じると御父がそれを喜んで下さるという、父の子に対する愛でしょう。自分が愛しているひとり子イエスを、私たち人間がサタンから解放されるよう犠牲として十字架に架けられた。そこにある、御子に対する愛。私たち人間に対する愛。そのことをよく理解した上で、十字架に架けられた御子イエスを愛するなら、天の父は私たちをなお愛して下さって、子どもとして下さる。御子イエスを愛したから、御子イエスを愛する人間をも、天の父の子どもとして下さるのです。
そうして冒頭に掲げた、ヨハネの手紙第一にある御父と御子との愛の交わりの中に入れて下さいます。この中で天の父の愛に浸る時、大きな喜びがあります。ハレルヤ!人に求めることができない、豊かな広がりのある、永遠の時間を含んでいる愛です。
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イエス・キリストを信じる者は、誰でも神の子どもになれるということは、天地創造がなされる前から、神のご計画として決まっていたということが、エペソ書の冒頭に書かれています。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
(エペソ人への手紙1:3~7)
天の父は、私たちの苦しみをよくご存じです。私たちが置かれている状況をよく見ていらっしゃいます。愛をもって見ておられます。
その私たちに、御子イエスを通じて、自分の子どもになりなさいと招いておられるのです。ちょうど、放蕩息子のたとえ話(ルカの福音書15章)にあるように、自分の元に帰ってきた息子を遠くから見つけて、走り寄って抱き締めてくれる、そうした愛をもって。
この愛の中に入っていくには、イエス・キリストのみことばによって自分を洗い続ける一定期間が不可欠だと考えています。人間は生まれて育ってから、神の言葉以外の言葉を聞き続けてきているので、神の言葉が言っている意味がきちんと理解できないのと、その霊的な側面がわかりません。神の言葉を神の言葉として聞き、その霊的な意味が豊かに開かれてくるために、みことばによる洗いは不可欠です。このことは最近の2か月間の投稿の中で繰り返し書いていますので、お読みになって下さい。
御子イエスを愛することは、みことばを愛することです。みことばは、天の父の言葉でもありますから、そういう人は天の父にも愛されます。すなわち、神の子どもとなることができるのです。
神の子どもとなれば、「お父さん!」と呼ぶことができるようになります。
はるかな昔から、御父と御子とが交わってきた、愛の交わりの中に入ることができるようになります。それは何物にも代えがたい、すばらしい交わりです。
ハレルヤ!