「エルサレムに優しく語りかけよ。
これに呼びかけよ。
その労苦は終わり、その咎(とが)は償われた。
そのすべての罪に引き替え、
二倍のものを主の手から受けたと。」
イザヤ書40:2
聖書のみことばに接するやり方のひとつのケーススタディとして、私が現在進行形で取り組んでいるものを書いていきます。
ある時、イザヤ書40:2の「その労苦は終わり」という部分が、私の内で、ポッと浮かびました。これは、内なる聖霊が、みことばを示す時に、よく行って下さるパターンです。感謝します。ハレルヤ!
聖霊は、みことばに関して、信徒を助けます。信徒がみことばに何かの形で取り組もうとする時に、色々な事柄を整えて下さいます。また、知恵を授けて下さいます。ヨハネの福音書の14章~16章に、聖霊の基本的な働きが記されています。その働きが、自分の内において、起こります。
内側でポッと浮かぶ形で、聖霊が示して下さったみことばを、聖書で確かめて、イザヤ40:2であると特定し、それから、このみことばを吟味します。
みことばは、神の言葉です。その時々に応じて、その人にとって、教会にとって、ある国にとって、様々な意味を語りかけてきます。
個人的に、現在の私が、このみことばを受け取った時には、大変に苦しい祈りと試行錯誤の時期が数か月間続いていた時でした。
現在取り組んでいる、朝晩口ずさむみことばのリストに、このみことばを加えて、何度も何度も口ずさむということを始めました。多くのクリスチャンが行っているデボーションに近いと言えるでしょう。異なるのは、20程度選んだ同じみことばを、来る日も来る日も口ずさみ続けるということです。(デボーションは通例、1つのみことばについて、1日に1度集中して、そのみことばを霊的な血肉に変えるやり方です。その同じみことばに何度も何度も集中するというやり方はとりません)
このイザヤ40:2を、何度も何度も口ずさんでいると、あたかも、神が私自身に語りかけて下さっている言葉のように、聞こえてきます。
私は、ある時期、罪を犯していました。かなり重い罪です。そのことに気づいたのが、昨年の12月。それから、重たさを抱えて、試行錯誤しながら祈るという生活が始まりました。
1月、2月、3月、4月と祈ってきて、5月のゴールデンウィークの時には、断食に取り組みました。デリック・プリンスによると、ある課題がある時、断食しつつ祈るということには、大きな効果があるのだそうです。その典型例が、エステル記にある、エステルがイスラエルに呼びかけた断食です。
また、使徒のはたらきをよく読むと、初代教会では頻繁に断食していた様子が窺われます。
そういうことも取り入れながら、毎日朝に2時間程度、多くの場合は異言で祈るということを続けてきて、5月中旬から、ここ最近何度か取り上げている、みことばを朝晩口ずさむことによって、自分自身を洗うということに取り組むようになりました。
みことばを毎日口ずさむようになると、頭で聖書の言葉を理解してわかったようになっていた最近までの自分とは異なる、神そのものでもある神の言葉への尊崇の念が生じてきます。
イザヤ40:2は、「その労苦は終わり、」と述べています。
そうすると、神様がそのまま、「お前の労苦は終わったんだよ」と言っているように、聞こえてきます。このみことばが、そのまま、神様からの、ダイレクトな声のように、聞こえてくるのです。
そうして、それを毎日何度も繰り返して口ずさみます。
すると、過去数か月取り組んできた苦しかった祈りの日々が、ようやく終わって、「二倍のものを主の手から受け」られるようになったのかと、晴れ晴れとした展望が開けてくる感じがします。
そうです。このみことばのメッセージが、リアルな神のメッセージとして「信じられる」ものになっていくのです。
「うんうん、信じられる」、「イザヤ40:2のみことばは、素直に信じられる」。そういう風になっていきます。これは、他のみことばも含めて、毎日口ずさんでいるために、みことば全体と仲良くなっていると言いますか、信じやすい自分の素地ができてきたからだと言えるでしょう。
「みことばを信じやすい自分」、「みことばを素直に信じられる自分」が、知らぬ間に育まれていたのです。
いったん、そのみことばを「信じられる自分」が内部に育まれると、その人がそのみことばを口ずさむ=宣言する=告白する行為は、神に対して、周囲の状況に対して、敵の霊(サタン・悪霊)に対して、そして自分に対して、力強い神の言葉を言い表していることになります。
「信じている神の言葉」を、公に、口で言い表すことが、大変に重要です。
そこに、神の力が働くからです。
そうすると、次のイザヤ40:2を、自分の口から出すことは、それがそのまま成就することを意味します。神が、恵みとして、働いて下さるからです。なぜ恵みが来るのか?信仰があるからです。(信仰については、パウロ書簡を読むのがよいでしょう)
「エルサレムに優しく語りかけよ。
これに呼びかけよ。
その労苦は終わり、その咎は償われた。
そのすべての罪に引き替え、
二倍のものを主の手から受けたと。」
信仰があって、神の言葉を自分で口にして、そこに神の力が働くとなれば、私が過去6か月にわたって取り組んできた、苦しかった祈りの日々は、もう終わりになったということになります。労苦は終わりました。咎は償われました。
そしてなお、二倍のものを、ご褒美としていただけます。
聖霊が、最初に、私の心の内でポッと教えて下さったのは、その予兆として、教えて下さったということでしょう。言い換えれば、預言として、このみことばを示して下さいました。
そうして、いただいたみことばを、神の言葉として大切に取り扱って、毎日口ずさんでいるうちに、そのみことばに対する信仰が芽生えてきました。
信仰があれば、あとは、成就まで、時間の問題です。ハレルヤ! 宣言し続けていけばいいのです。
(なお、この、信仰を持って宣言することは、霊の世界において、大きな影響力を与えます。霊の世界で何かが変化し、それが、現実の世界に現れます)
これが、生きた神の言葉と取り組む際の、ひとつのパターンです。
これがすべてである、と言うつもりはありません。あくまでもひとつの事例ということで、メモ書き程度で、お出しします。