日曜日の聖書のみことば:捕らわれ人には赦免を(ルカ4章) | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

福音書で記載されているイエス・キリストの姿は実に多様です。

罪のない、無垢な小羊として、十字架にかけられました。その小羊の血は、すべての人間の罪をあがなうために流された血です。

一方のイエスは、死からのよみがえりによって、数千年間この地を支配し続けてきたサタンに、圧倒的な勝利者として、圧倒的な力で迫り、有無を言わせない迫力があります。勝利の王としてのイエスの姿があります。


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ジーザスどこでも教会として、特に大切にしたいと考えるイエスの姿が、「解放の主イエス・キリスト」です。

イエス・キリストは福音書の中で、悪霊が住んでいる人から悪霊を追い出し、病につかれた人から病を追い出し、目が見えない人から盲目を追い出し、足がなえた人から足なえを追い出して歩いています。何かに囚われた人を徹底的に解放して歩いているのです。

これは、創世記でエバをだまし、アダムを人類全体の罪へと引きずり込んだサタン。そのサタンがこの地上の支配者となり(アダムに与えられた地上の支配権を、彼が横取りしたのです)、人間に多種多様な縛りをかけた。人間がサタンの実質的な奴隷となった。悪霊。病。貧困。諦め。不幸。そうしたものを人間にどんどん送り込んで、つなぎとめ、がんじがらめにしている。

それを、神の子として地に降りてきたイエスとしては、どうあっても放っておけない。見るそばから悪霊を追い出し、病を癒す。イエスには、天においても地においても、一切の権威が与えられていますから、悪霊であれ病であれ、何であれ回復できないものはありません。
 

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。(マタイ28:18)


そのようにして悪霊を追い出し、病を癒して、津々浦々を回り、並行して、福音を宣べ伝えて歩いた。

これが解放の主イエス・キリストです。人々を解放して歩く王です。

当教会は、この解放の主イエス・キリストを、力強く、地の上に現していきたいと考えています。

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解放の主イエス・キリストを、イエスの出現の数百年前に預言しているのが、イザヤ書の61章冒頭です。
 

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、
シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。(イザヤ61:1-3)


捕らわれ人には解放を…という部分が直接的には解放の主を表していますが、もっと広い目で見ると、この3節全部が、解放の主イエス・キリストを描写しています。

ここに、世の終わりを示す、「神の復讐の日」も含まれていることが興味深いです。最後に、主イエス・キリストが空から降って来られる時は、すべての敵の側の人間に苛烈な裁きが下ります。そのことを指しています。

これは、イエス・キリストは確かに愛の神ですが、一方で、愛する羊たちにわるいことをし続けてきた人たちのことも忘れておらず、そのしたことにふさわしい仕打ちをなさる神でもある、ということです。これがあって初めて、例えば、殉教したキリシタンのような存在が報われます。迫害された人たちのことを忘れておられない神であることは、黙示録にも書かれています。

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このイザヤ61章の解放の主イエス・キリストに関する預言。これを数百年後に生まれて、成人になったイエス様が、当時のユダヤ教の会堂で行われている集会で、立って朗読するシーンがあります。

これが大変に鮮やかな印象を残す箇所になっています。
 

それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:16-19)


これは、30歳前後のイエス様が、ご自身について書かれているイザヤ書を、みんなの前で朗読するという、大変に興味深いシチュエーションです。

どういう想いで朗読されたことでしょう?

きっと、大変に晴れ晴れしい、自分の時が来た!という想いで朗読なさったのではないかと推察されます。預言が数百年の時を経て成就したのです。

そうして、これを読んでいた時のイエス様には、主の栄光の光が照り輝いていたことでしょう。少し上の空では天使が喜び舞っていたことでしょう。

読み終わった後の記述が以下です。
 

イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか」と彼らは言った。(ルカ4:20-22)


会堂の全員がみちがえるような存在となったイエス様を目の当たりにし、びっくりしていた様子が伺えます。そうです。預言が成就したのです。解放の主イエス・キリストが世にはっきりと現れたのです。

 

 

 

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