以下は改題して再掲する投稿です。オリジナルは2016年10月15日付けで投稿した「聖霊に満たされて、ひたすら満ち足りる」。日本社会にある同質化傾向から来る苦しみは、カウンセリングでなんとかなるものではなく、イエス様の救いによってのみ真の自由が得られる、ということを述べています。長いのは、これ1本でこの話題を完結させたかったからです。

 

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しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。(第1テモテ6:6)

 

◎終わらないカウンセリング

 

学校でも職場でも地域でも、日本では同質化傾向が強いことは、誰もが説明不要の事実として知っていると思います。

 

40人の中学校のクラスがあったとして、そのうち、数人は30数人の、ある種「かたまりとなった心的傾向」にうまく入って行くことができず、それがため、30数人からは仲間はずれにされ、色々な時にストレスを感じることとなります。いじめにも遭うかも知れません。

 

どの集団にも確率的に数%程度は、その集団の中に溶け込めない人がいるものです。しかし、日本の社会の色々なところに根強くある同質化傾向は、その溶け込めない人をも無理くり溶け込ませようとし、それができないとわかると、仲間から閉め出します。

 

この時、閉め出されたA君、Bさんが、自分に大いなる自信を持てる才能とか、優れた身体能力とか、特殊が技能があれば、仲間から締め出しを食らっても、さほど心的ダメージにならず、割と淡々と生きていけます。学校を卒業したら、自分に合った大学なり、専門学校なりに入り、自分自身にとって、もっとも幸せだと思えるキャリアを歩むこともできるでしょう。

 

Courtesy of Toomore Chiang

 

けれども、A君やBさんが、まだ若くて、自分の美点もよくわからず、クラスの30数名の同質化の圧力で毎日、ひぃひぃ言うような状況にあるとき、けっこうこれは大変です。学校に通う毎日が、責め苦の日々となります。この心的圧迫は、人からは見えないため、時によっては親でさえ、明確に感じ取ることができないため、「なんでこの子は、こんなにまで学校でストレスを感じているのだろう?」(ポカーン)という風になることもあるかと思います。しかし、当人にとっては、ものすごい問題ですし、それも毎日毎日やってくるストレスですから、ある程度の水準まではガマンして学校に通うことができたとしても、その水準を超えるストレスが続く状況だと、もう学校には通えないということにもなるでしょう。

 

これと同種のことが、職場でも起こります。社風、あるいは会社のカルチャー、価値観。組織全体を覆う心的な同質化傾向が、自分にとってどうしてもなじめない場合、登社拒否になったり、職場を変えるということになるでしょう。

 

こうした課題を解決するために、世の中的には、専門家によるカウンセリングや、病院では神経内科とかいった、とりあえずは相談に乗ってくれる職能の人が存在しているわけですが、多くの場合は、当たらずも遠からずと言うか、1年通っても2年通っても、「完璧に救われてハッピー!」という風にはならず、重いものを抱えながら生きていく、という風になるかも知れません。

 

大学や専門学校生の頃に、バンド、演劇、アパレルデザイン、ヘアスタイリスト、ファインアート系の色々、書くこと、ソーシャルメディアでの自己表現など、自分の良いところを表現の形で外に出せるきっかけがつかめると、それ以降はそれが自己実現のメインの器となり、日本社会の同質化傾向からはあまりストレスを感じない人生の道を歩むことができる…。そういうラッキーな選択ができるようになる人もいるでしょう。

 

しかし、そうではない人もいるわけです。

 

私は、20歳の時にインドに行って、ドラッグをやりまくって、その上、現地の多神教の偶像礼拝的な渦の中に巻き込まれてしまった経験があり、それまでは普通の小学生、中学生、高校生、大学生でやってきましたが、それ以降は、ものすごく特殊なものを抱えた、誰にもうまく説明できない、日本の社会の同質化傾向の中にはまったく入れないという状況になってしまいました。

 

その頃、ユング派の秋山さと子氏の指導を受けた、ユングから見ると愛弟子(CAマイヤー)の弟子(秋山さと子)の弟子(私がユング派の分析系カウンセリングを受けていた女性の方)、すなわちひ孫弟子にあたる方に、3年程度か、毎週土曜日に伺って、45分程度、色々のお話をするというカウンセリングを受けていました。ですが、結果としては、あんまりさっぱりしたものにはなりませんでした。

 

夢を書いて持って行って、アンプリフィケーション(増幅)と呼ばれる、夢の中の諸要素についておしゃべりをしながら、その文脈を作るというような作業や、箱庭に色々のものを並べて、並べ終わってから私が説明したり、カウンセラーの方から質問を受けてそれに答えたり、といったことをやっていました。

 

当時、翻訳されていたユングの本はほぼすべてしっかりと読んでいました。その中でも、ユングの晩年の大著である「心理学と錬金術」には、「分析治療は終わらないものだ」ないしは「分析治療は、クライアント(カウンセリングを受けている人)においては、どこまで行っても終わったという実感が持てないものだ」というニュアンスのことが書かれていて、当時も「ああ、そういうものなのか」とうっすらと感じ取っていたということはありました。要は、セラピーはエンドレスなのです。

 

最相葉月が一昨年かな、出版した「セラピスト」では、そうした欧米が起源のカウンセリングの各派の発展の道筋をたどりながら、日本の高名な分析心理学者(ユング派)、アドラー派、その他の大家の方々に取材し、彼女自身も取材の過程で自分の問題を明るみに出していくという、かなり力の入った内容になっていました。それでもやはり結論から言うと、この種のカウンセリングは多くの場合、終わらないのですね。

 

で、何が言いたいかと言うと、ほんとうの自由というのは、やはり、イエス・キリストから来る自由しかない、というのが、私が、上記のインドのあれこれから35年程度生きてきて、得た結論です(うち15年強がクリスチャン人生)。35年ですからね。すごいですよ(笑。イスラエルの民が荒野をさまよった40年間にも匹敵しようかと言う年数です。

 

◎日本の社会の同質化傾向のキモ - 日本教的なもの

 

日本が特殊な社会だと言うつもりはありませんが、おそらくは、徳川幕府300年間の間に、各藩における地域社会システムの統治の手法が確立し、地域社会の隅々にまで行き渡り、村や町の和を乱すような人が出にくい社会になっていったのではないかと推察します。和を乱すというのは、社会構成員の大多数が「良し」としていることに異を唱えること。和を乱すことはよくない。和を乱した者は社会から除外せよ。そういうメカニズムが定着したのでしょう。当時のキリシタンがその最大の被害者だったと思います。

 

倒幕から明治維新にかけて、日本の国家レベルにおいて、旧弊な社会統治システムは刷新されました。この頃は、色んな人が色んなレベルで「これが日本にとっての『良し』」ということを真面目に議論し、社会改革に動くことができました。この頃の日本は、同質化傾向がきわめて弱まった時期ではなかったかと思います。


その後、大正には随分と自由な気風が--それも舶来のものでしたが--都会に浸透した時期があったようです。「モボ」「モガ」が話題になった時期ですね。昭和に入ってだんだんと、軍主導の統治システムが確立していきました。同質化傾向が最高度に強まった国家神道と国体が形づくられて、多くの人が犠牲になりました。日本にいた、ないし連れて来られた外国人の方々も、相当な辛酸をなめさせられたことでしょう。そして、日本は戦争に負けました。

 

戦後の混乱期は、とにもかくにも、多くの人たちが生きていくのに大変で、同質化傾向もへったくれもなかった、良い意味でのカオスがあったと思うのですが、高度成長期を経て、日本が復興するにつれて、企業社会や学校において、再び同質化傾向が威力を増すようになったと考えています。

 

日本にある同質化傾向の特徴を挙げると、次のようになるかと思います。

 

・ルールは暗黙のものである。明文化されていない。ルールをあうんの呼吸で理解できないと、無粋な奴だと見下される。
・社会の成員全員がその同質化傾向を受け入れて当然、という思考をベースに持つ。異なる考えを持つ少数派を認めない。
・その時代、時代で、同質化傾向の表層部分は「ファッション」のように手替え品替え、様相を変える。例えば、80年代のバブル期のらんちき騒ぎや、近年の新卒者の就職活動の現実など。
・ルールに背くと、何らかの罰を受ける。場合によっては、その共同体からはじき出される。

 

これは、目に見えるレベルの話ですね。

 

クリスチャンになって10数年、この同質化傾向には、霊的な側面があると、いまはハッキリと感じます。


聖書的には、聖霊を初めとした聖書的な霊でないものは、汚れた霊(evil spirit)か悪霊(demon)です。日本の同質化傾向の背後で動いているのは、もちろん聖書的な霊ではないので、悪霊ないしは汚れた霊ということになります。

 

この同質化傾向が、一種の「宗教」であると考えればわかりやすいでしょう。便宜的に「日本教」と呼ぶことにします。


日本教では、大多数の社会構成員が崇拝する目に見えない神がいます。聖書的な神ではないので、日本教の神と呼ぶことにしましょう。聖書的な観点では旧約の時代のバールみたいな神です。

 

日本教の神は、それに従順である限りにおいて、その社会において、その組織において、構成員を優遇してくれます。しかし、日本教の神以外の神を崇拝している人は、優遇されないグループに入れられてしまいます。

 

また、日本教の神は、寛容ではありません。裁く傾向がかなり強いです。なので、日本教のルールを守らない人には、苛烈な裁きが下ります。また、社会の構成員同士が裁き合います。裁き合う中で、社会の統制を保っているところがあります。

 

また、不祥事を嫌います。不祥事があると、日本教の神は、その構成員全員とともに、呵責なく裁きます。よくメディアで、芸能人などが謝罪が要求されたり、企業の経営者が新聞・テレビのカメラの前で統一的な作法に従って、同じ角度で頭を下げるということがあります。不祥事を起こすと、あのような社会的な裁きがあります。


このへんは、日本人社会の心的傾向というレベルを超えて、構成員の大多数が憑かれている悪霊によるものだと考えると、わかりやすいと思います。

 

日本教の神は、構成員の1人ひとりに悪霊を送っていて、その悪霊が各人をやいのやいのと掻き立て、謝罪を迫ります。不祥事を起こした人を裁くことによって、その宗教共同体は生き生きとした命を保っている(スケープゴートですね)。そんな様子があるようですね。

 

このように、日本教という目に見えない宗教的な枠組みがあり、社会の構成員の1人ひとりに、悪霊を送っていて、裁きによって統率している。そういう風に考えると、冒頭で述べた、学校や職場で少数派である人が受けるストレスの意味がよく理解できるように思います。


また、多くの場合は、社会への不適応を抱えて、専門家のカウンセリングを受けても、問題の本質が霊的なものであるため、カウンセリングによる解決に導かれにくい、ということの構造も見えてくるように思います。

 

聖書になじんだ方には、日本には目に見えない律法主義のような霊的な活動があり、それは新約の救い主イエス・キリストが介入してこないと、本来的な解決である霊的な救いには至らない。そのように説明するとわかっていただけるかと思います。

 

◎ほんとうの自由はイエス・キリストから

 

聖書には、主イエス・キリストを信じることによってもたらされる「ほんとうの自由」に関する記述がいくつもあります。

 

それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。
イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4:16〜21)

 

そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31〜32)

 

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)


イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。(ヨハネ8:34〜36)


かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。(第2コリント3:15〜17)

 

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ5:1)

 

この、イエス・キリストを信じることによって得られる自由は、本質的な、根源的な、最終的な、霊的な自由であるため、日本社会の至るところにある同質化傾向の縛り、くびき、拘束、ある意味で奴隷のようになることを強いること…。そうしたことからの完全な自由をもたらします。35年苦しんできた私が言うのですから、間違いはありません。

 

◎聖霊に満たされて、ひたすら満ち足りる

 

そして、この話には、まだ続きがあります。イエス・キリストが主であると信じ、告白し、水のバプテスマを受けてクリスチャンになった後で、すべてのクリスチャンは、聖霊のバプテスマと呼ばれるものを受けるチャンスがあります。


私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」(マルコ1:8)

 

ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:5)

 

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。(マタイ3:11)

 

ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。(ルカ3:16)

 

この聖霊のバプテスマを授けていただくと、「聖霊に満たされやすいからだ」になります。パウロは、この「聖霊に満たされやすいからだ」のことを「神の宮」、「神の神殿」と呼んでいます。

 

神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(第2コリント6:16)

 

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。(第1コリント3:16)

 

自分の内側に聖霊の満たしが起きやすくなると、例えば、次のような経験をするようになります。

 

・日曜日の礼拝に出席した後、自宅に帰るまでの間に、賛美、礼拝の間に受けた聖霊、感じ取った主の臨在、現れた主の栄光の「残影」のようなものがからだじゅうに満ち満ちて、ぼーっとしながら、感激しながら、この世のものではない喜びに浸りながら、てくてく歩く。
・何の前触れもなく、歩いている自分の内側に、聖霊が満ち満ちて、ある種の陶酔状態が訪れる。多幸感に包まれる。
・物質的な意味で、あるいは経済的な意味で、何かが不足していたり、乏しい状態にあるとしても、霊的な喜び、天的な豊かさが内に満ち満ちるので、ひたすら「満ち足りた」こころもちになる。

 

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。(第1テモテ6:6)

 

そうなのです。聖霊様が満ち満ちて下さることによって、目に見えるものや物質的なものが、豊かにあるかないかにかかわらず、「ひたすら満ち足りている」という実感を持つことができるようになります。これは実にすばらしいことです。

 

上で述べた「自由」のさらに先にある、とほうもない充実感とでも言いましょうか。

 

そういうことを経験するようになると、日本教の枠組みが強く動いている社会や集団の中に入っていく際にも、自分においては、主イエス・キリストにあるバリヤーのようなものが働いて、そこにいても常に喜びがある、本来的な自由を感じ取ることができる、ストレスなんか全然関係ない、周囲の日本教の方々にも、イエス様の名によって祝福を与えることができるようになる、隣人として愛することができるようになる。そういう善循環が始まります。

 

それもこれも、イエス様が十字架でご自身を犠牲の子羊として捧げられたことによっていただける、無制限の恵みのゆえです。

 

ということで、主イエス・キリストにある自由!ハレルヤ!