2017年9月7日。
この時期の妻の体調はいわゆる小康状態。
急変する手前の非常にギリギリの線を過ごしていたと思います。
ただ、妻は度々熱を出し、白血球数やCRP値がどうしても標準値まで下がらない。
この時期も毎日のように抗生剤と肝臓保護の点滴を朝と夕方の2回、行っていました。
抗がん剤をずっとやってきたいつもの病院は、歩いていけるほどの距離にあったからそれが可能。
そうやって何とか肝臓の状態を維持させようとしていました。
ずっとお世話になっていた主治医に、担当をがんセンターの先生に変えたいという話をした時も、快く応じてくれて。
何かあった時は全力でサポートすると言ってくれました。
本当にいい先生に出会えましたと思います。
私はこの時期、
妻の状態の変化に神経を尖らせていました。
今までももちろんそうでしたが、
この時に特に目を光らせていたのは、
妻の眼球の色。
遅かれ早かれ。
このままではいずれ黄疸が出てくる。
ビリルビンの値が基準値を超えた時から覚悟をしていました。
そして。
黄疸が出始めたら余命1カ月。
もちろんこんな基準に信憑性など無いとは思っていたけど、
意識せざるを得ませんでした。
ただ、ビリルビンの値が基準値を超えてまだ間もなかったので。
きっと11月か、早いと10月くらいか。
それくらいには黄疸が出始めるかもしれないと考えていました。
だから一刻も早く、マイクロサテライト不安定性の結果が出て、PD-1抗体の治験に参加して、一発大逆転をする。
そんなストーリーを毎日頭に描いていました。
でも恐れていた日は、早くも訪れてしまいます。
この日、妻はだいぶ疲れていました。
ちょっと買い物に出かけたりして、
背中の痛みも強い。
オプソもハイペースで使っていて、早くも3包目に手を伸ばしていました。
MSコンチンとの併用でも疼痛のコントロールが出来なくなってきていました。
心配げに妻の目を見つめた時、気付いてしまいました。
明らかに眼球が黄色くなっている。
明らかに眼球が黄色くなっている。
妻にも声をかけ、鏡を見てもらいました。
「ホントだね。。」
妻は淡々としていました。
「ホントだね。。」
妻は淡々としていました。
この人は私の前で取り乱す事はほとんどありません。
とても気丈な人でしたから。
でも彼女が残したスマホには、
黄色くなった自分の眼球を写した写真が残っていました。
本当は急激に悪化していく自分の状態が気になって気になって、仕方がなかったのだと思います。
その時の妻の心境を想像すると、今でも胸が苦しくなります。
ビリルビンの値。
前回検査したのは、がんセンターで診察を受けた9月1日。
その時は
総ビリルビン 2.1
直接ビリルビン 1.5
基準値を超えているものの、
目に見えるほどの黄疸が出る値ではありませんでした。
あれからさらに急激に、
状態は悪化しているのか。
嫌な予感がしました。
すぐに元主治医がいる病院を受診し、
血液検査をしてもらいました。
その結果。
総ビリルビン 4.5
直接ビリルビン 3.5
ほんの1週間程度で2倍以上になっている。。
恐怖を感じました。
恐怖を感じました。
燃え盛る炎のような肝臓。
形が脆く崩れた肝臓。
その肝臓が悲鳴を上げ、
急激にその機能を停止させようとしているのを感じました。
ロンサーフが効いてくれること。
今はこれ以外にないとがんセンターの先生は言いました。
閉塞性黄疸の場合、狭窄部分にステントを留置して詰まりを防ぐ外科的手法もあるようですが。
閉塞性黄疸の場合、狭窄部分にステントを留置して詰まりを防ぐ外科的手法もあるようですが。
妻の場合、あまりにも腫瘍が巨大で数も多い事から対応は難しい。
恐怖の値。ビリルビン。
この後、加速度的にこの値は急増します。
黄疸が出始めたら余命1カ月。
今日が9月7日だから。
妻は10月7日に死ぬ。
いやそんなはずはない。
頭をプラス思考に切り替えなければ、
自分自身がどうにかなってしまいそう。
何があっても妻に寄り添うのだ。
そう決意すること。
この時はそれしか出来ませんでした。
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