2016年11月24日。
原発巣である大腸癌の切除手術は無事成功した。
原発巣である大腸癌の切除手術は無事成功した。
その日は集中治療室で一晩過ごす事になっていたが、面会終了時間が来てしまったため、その日は大人しく帰宅した。
自宅にたどり着いて一息つきはしたけど。
気が気じゃなかった。
成功したとはいえ、出血や急変など、色んなリスクはまだまだ残されていたから。
翌日。
無事にしているかどうか気になったので、妻にLINEを送った。
そして、既読になるまでずっーとスマホと睨めっこしていた。
既読になったのはその日の午後だった。
妻が病室に戻れた証拠だ。
妻が病室に戻れた証拠だ。
この後、退院する12月2日までは順調に経過していくことになる。
手術痕の痛みはあるものの、投薬によって痛みのコントロールは出来ていたし、傷口も腹腔鏡で済んだから小さくて治りも早い。
一番の敵は「空腹」と「暇」くらいだったろうか。
やがて順調に回復していた彼女は、病院のロビーにまで出ることが出来るようになった。
子供達を連れて何回か面会に行けたから、多少は気が紛れただろう。
妻の入院中もそうだったし、この後の闘病生活中も、そして今もそうだが、母という存在がいない状態での二人の子供の育児は本当に大変だった。
上の子は3歳でまだ幼稚園に通う前だったし、下の子は4ヶ月の乳飲み子だったから24時間面倒を見つつ、家事もやらなきゃいけない。
私は仕事後に病院に駆けつけて、遅くまで面会する毎日だったから、この時の育児のメインはお義母さんだった。
でも、時間がある時はお風呂に入れて、ミルクも上げて、寝かし付けをして、夜中に何回も起こされてと、当時は全く慣れなかったから大変だった。
何しろ当時はウンチも変えられなかったから。。
今はあまり苦でもなく出来ちゃうから逞ましくなったもんだと、我ながら思う。
そして、妻はママ友や子供達との繋がりを大切にしていた。
病気になった事も、すぐに仲良しのママ友達に伝えていたくらいだ。
上の子の児童館の集まり会が毎週木曜日にあったが、この妻が守ってきた繋がりを私は絶やしたくなかったので、私が仕事の調整をして連れて行くようにした。
児童館の集まりは、子供たちと遊んだり踊ったりと、結構ハードな日もあった。
妊娠中も、癌の症状でひたすら体調が悪かった時も、頑張って毎週子供を連れて行っていた妻には本当に頭が下がる。
これが妻が大切にしてきた親子の世界だった。
病気になったからといって諦めたくない。
普通の家族でいたい。
普通の家族でいたい。
子供達も普通に健やかに育って欲しい。
今までの生活を守るために。
妻が大切にしてきた世界を変えないために。
必死で繋げようとしていた時期でもあった。