平野です。
今日は雨。。。。洗濯物が溜まりますね。
今日は、下水処理について考えています。
CSRコミュニティでもお世話になっている鶴田商会環境事業部(エコ・ブランチ) さんの
お声かけで、下水処理をわかりやすく説明する印刷物を作成しましょう!!と、
いうことで。
(エコ・ブランチさんの詳細はCSRコミュニティの、こちらのページ からもご覧になれます。)
自分の生活によって出された水がどのような経路をたどって、海に入っているかって、
どのくらいの人が知っているのでしょう??
この部分、普通は興味ないか、知らないか、どちらにしても生きて行く上では
あまり関係ないことかもしれませんよね。
基本的に、下水が備わっているご家庭生活排水は家庭から出ると、
例えキッチンからでもお風呂からでもトイレからでも、流した水は家の外で同じ配管に入り、
場合によっては「ポンプ場」等を経由しますが、一度「下水処理場」へ入ります。
下水処理場では、沢山の家庭からの生活排水を、「海や河等の自然に流していいくらい奇麗な状態」にある程度浄化して、海や河へ放流するため、大抵の場合はその海や河の近くに作られています。
処理場で、
家庭からの排水(食事の際の飲み残し、洗濯排水、トイレの汚物、お風呂やシャワーで使った水等)を
自然界にかえせる状態に戻すのには、主に「微生物による浄化作用」をつかった技術です。
そうなんです。なんだかITだとかロボットだとか。。。
最近日常では超ハイテクな時代になったな~と、感じることも多いのですが、
今でも人間活動で生じた汚れを浄化しているのは、微生物です。(浄化槽も同じ原理です)
化学物質等を多く含む様な工場排水はまた別ですが、
生活排水程度の負荷のものは、微生物により汚濁を除去して、時間をかけて汚濁物質を
沈ませ(沈降といいます)、上澄みを河や海へ放流します。
皆さんが台所やお風呂やトイレから流した水は、下水処理場に行き、
そこで微生物の力を使って汚れを浄化し、自然界へ戻っています。
そして、その処理場を動かしているのは、そういう仕事をしている、
皆さん以外の誰かです。
ゴミもそうですが人が生きることで生じた廃棄物は、ゴミの日に出したり、外出先のゴミ箱に捨てたり、
家の流しに流したり、トイレに流したりした瞬間に消えて無くなる訳じゃありません。
必ずどこかに行き、人や微生物を含む他の誰かが処理しているか、
そのまま自然界に蓄積しているかのどちらかです。
そして、蓄積した汚染、汚濁などは、必ず私たちのもとへ何かしら形を変えて戻ってきます。
私たちにすぐに戻ってこない場合は、私たちの子どもや孫、ひ孫・・・の代になって
戻ってきます。必ずです。消えて無くなることは決してないのです。
生きて行く上で、自分の出す廃棄物(ゴミや排水)がどうなっていくのか知ることは、
関係ないと言い切れるのでしょうか。。。。
1992年、ブラジル・リオデジャネイロの地球サミットで、当時12歳だったセヴァン・スズキさんが
世界の首脳の訴えた言葉を知っていますか?
私はこのとき13歳。中学生でした。このスピーチは今でも忘れられないし大切なことを
教えてくれました。一部ご紹介しますので、特にご存知じゃない方はぜひご覧下さい。

ここでは、あなたがたは政府とか企業とか団体とかの代表でしょう。あるいは、報道関係者か政治家かもしれない。でもほんとうは、あなたがたもだれかの母 親であり、父親であり、姉妹であり、兄弟であり、おばであり、おじなんです。そしてあなたがたのだれもが、だれかの子どもなんです。
私はまだ子どもですが、ここにいる私たちみんなが同じ大きな家族の一員であることを知っています。
(略)私は子どもです が、みんながこの大家族の一員であり、ひとつの目標に向けて心をひとつにして行動しなければならないことを知っています。私は怒っています。でも、自分を 見失ってはいません。私は恐い。でも、自分の気持ちを世界中に伝えることを、私は恐れません。
私の国でのむだ使いはたいへんなものです。買っては捨て、また買っては捨てています。それでも物を浪費しつづける北の国々は、南の国々と富を分かちあお うとはしません。物がありあまっているのに、私たちは自分の富を、そのほんの少しでも手ばなすのがこわいんです。 カナダの私たちは十分な食物と水と住ま いを持つめぐまれた生活をしています。時計、自転車、コンピューター、テレビ、私たちの持っているものを数えあげたら何日もかかることでしょう。
2日前ここブラジルで、家のないストリートチルドレンと出会い、私たちはショックを受けました。ひとりの子どもが私たちにこう言いました。
「ぼくが金持ちだったらなぁ。もしそうなら、家のない子すべてに、食べ物と、着る物と、薬と、住む場所と、やさしさと愛情をあげるのに。」
家もなにもないひとりの子どもが、分かちあうことを考えているというのに、すべてを持っている私たちがこんなに欲が深いのは、いったいどうしてなんでしょう。
これらのめぐまれない子どもたちが、私と同じぐらいの年だということが、私の頭をはなれません。どこに生れついたかによって、こんなにも人生がちがって しまう。私がリオの貧民窟に住む子どものひとりだったかもしれないんです。ソマリアの飢えた子どもだったかも、中東の戦争で犠牲になるか、インドでこじき をしてたかもしれないんです。
もし戦争のために使われているお金をぜんぶ、貧しさと環境問題を解決するために使えばこの地球はすばらしい星になるでしょう。私はまだ子どもだけどこのことを知っています。
学校で、いや、幼稚園でさえ、あなたがた大人は私たちに、世のなかでどうふるまうかを教えてくれます。たとえば、
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争いをしないこと
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話しあいで解決すること
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他人を尊重すること
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ちらかしたら自分でかたずけること
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ほかの生き物をむやみに傷つけないこと
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分かちあうこと
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そして欲ばらないこと
なぜあなたがたがこうした会議に出席しているのか、どうか忘れないでください。そしていったい誰のためにやっているのか。それはあなたがたの子ども、つまり私たちのためです。あなたがたはこうした会議で、私たちがどんな世界に育ち生きていくのかを決めているんです。 親たちはよく「だいじょうぶ。すべて うまくいくよ」といって子供たちをなぐさめるものです。あるいは、「できるだけのことはしてるから」とか、「この世の終わりじゃあるまいし」とか。しかし 大人たちはもうこんななぐさめの言葉さえ使うことができなくなっているようです。おききしますが、私たち子どもの未来を真剣に考えたことがありますか。
父はいつも私に不言実行、つまり、なにをいうかではなく、なにをするかでその人の値うちが決まる、といいます。しかしあなたがた大人がやっていることの せいで、私たちは泣いています。あなたがたはいつも私たちを愛しているといいます。しかし、私はいわせてもらいたい。もしそのことばが本当なら、どうか、 本当だということを行動でしめしてください。」

いかがでしょうか?
当時12歳の子のスピーチです。
環境問題だけじゃないですね。何を訴えているんでしょうね。ひとそれぞれ感じ方があると思います。
私は大人になった今でも、このスピーチをよく読みます。
レイチェルカーソンの「沈黙の春」に出会ったのも、このスピーチを知ったのと同じ
13歳の時でした。
その頃から一層人間が、大人が、嫌いになっちゃいましたけどね

当たり前のこと、当たり前にやりましょうよ。
大人なんだから、ね。
