今書き始めようと思ってから30分が経過しています
まだ、なにを書いていいのかまとまりません。
それほどに1年前の今日は大きな日だった。
2時46分、そのとき僕は六本木交差点ほどちかくの地下のバーで
テレビ番組「ミルクちゃぽん」のコーナー「ミルクバー乳ジャージー」の撮影をしていました。
子供たちとの楽しい会話をしていたそのとき、
最初は小さな揺れで現場ではあまり気付く人がいなかった。
ところがどんどん大きくなる揺れ・・・
とっさに閉じ込められるのを心配して入り口の重いドアを開けて外に出てみると
電柱と電線が見たことないほど大きく揺れていました。
全員が外に出て、子供たちは親御さんといっしょにロケ車のなかに、
僕自身はスタッフと近くにあった広場の縁に立っていました。
しかしその広場の入口の錠がかかっていて入れなかった。
フェンスを乗り越え内側から開けようと試みましたが、できませんでした。
やがて40分後の大きな余震が発生。
近くのレストランの外国人従業員が大きなペンチのようなもので
錠を開けて付近にいた人たちが一斉に広場に集まって来ました。
勝手に錠を開けるのは良くなかったですが、誰もが「普通じゃない」状況に
本能的に気づいていたのかもしれません。
その間も電話はもちろんなにも通じない・・・
ただひとつロケ車の運転手さんが持っていたWIMAXだけはかろうじて通信が働いていた。
その電波を使わせてもらって、最初に連絡が来たのは
なんとドイツからのSKYPEとFacebookのメッセージ。
しかしそれ以外の国内の家族や友人とは2時間繋がらなかった。
そんななかJ-WAVEから電話が・・・
電話の声は編成局長。緊急用の特別電話を使ってのコールでした。
「今すぐこれるか?」
その質問に「これはただごとじゃない」と感じました。
しかし、東京の中心の六本木にいても路上にいた僕らに情報はなかった・・・
テレビの撮影も今日しなければいけない。
スタッフと話し合って、残っている撮影を終わらせて、そしてそのままJ-WAVEに向かおう。
その後4時半ごろになって電話やメールが少しづつ復旧してきて
家族や友人の無事を確認することができました。
ホッと胸を撫で下ろす中、撮影は再開され、不安な気持ちも大きかった中
子供たちもがんばってくれて、撮影が終わったのは予定から大幅に遅れて7時頃。
その間もJ-WAVEからは数回、僕の到着予定時刻を確認する電話が。
撮影を終えた僕は衣装から私服に急いで着替えて歩いてJ-WAVEに向かいました。
六本木通りの大渋滞を横目に早足で六本木ヒルズに到着すると、
エレベーターは動いていました。
「早く到着しなければ!」「なにかしなければ」という想いの中33階に到着。
そこで僕はようやく今回の地震と津波の全容を知りはじめました。
知って言葉を失いました。
緊急電話をかけてくださった編成局長やスタッフとともに10時からの
Hello Worldをどういう内容で放送するのかの打ち合わせを始めました。
あまりにも事態が大きく、震災発生当時から放送局にいた方々と、
今まだ震災の全容を理解しようとする僕との間に温度差があったと思います。
それほど理解するのに時間がかかったのを覚えています。
「これは大変なことが起きた」と思いながらも、
なにをラジオを通じて伝えるのか?
不安なまま、確信がないまま10時の生放送が始まりました。
刻々と入ってくる地震と津波の被害・・・
放送中も上がるマグニチュード。
電車が止まり交通がマヒしたここ東京で、不安なまま帰宅できない多くの人々。
そういった中には電話やメールで無事は確認したけど、まだ直接その目で見ていない家族のことを
考えていた方々も多かった。
僕らが伝えられるのは確かな情報と
私達はそれぞれバラバラに孤立していないんだという繋がりとぬくもり。
リスナーからのメールやツイートに助けられた2時間の放送を終え、
歩いて帰宅したのは午前2時頃。
それでも僕は帰宅できた幸運者です。
長い一日がやっと終わった
しかし、長い一年は始まったばかりだった・・・
多くのことが変化したあの日から沢山のことを学びながら
私たちは歩みを進めなければならない。
3/11 14:46 被害にあわれた皆様のご冥福をお祈りいたします
合掌
まだ、なにを書いていいのかまとまりません。
それほどに1年前の今日は大きな日だった。
2時46分、そのとき僕は六本木交差点ほどちかくの地下のバーで
テレビ番組「ミルクちゃぽん」のコーナー「ミルクバー乳ジャージー」の撮影をしていました。
子供たちとの楽しい会話をしていたそのとき、
最初は小さな揺れで現場ではあまり気付く人がいなかった。
ところがどんどん大きくなる揺れ・・・
とっさに閉じ込められるのを心配して入り口の重いドアを開けて外に出てみると
電柱と電線が見たことないほど大きく揺れていました。
全員が外に出て、子供たちは親御さんといっしょにロケ車のなかに、
僕自身はスタッフと近くにあった広場の縁に立っていました。
しかしその広場の入口の錠がかかっていて入れなかった。
フェンスを乗り越え内側から開けようと試みましたが、できませんでした。
やがて40分後の大きな余震が発生。
近くのレストランの外国人従業員が大きなペンチのようなもので
錠を開けて付近にいた人たちが一斉に広場に集まって来ました。
勝手に錠を開けるのは良くなかったですが、誰もが「普通じゃない」状況に
本能的に気づいていたのかもしれません。
その間も電話はもちろんなにも通じない・・・
ただひとつロケ車の運転手さんが持っていたWIMAXだけはかろうじて通信が働いていた。
その電波を使わせてもらって、最初に連絡が来たのは
なんとドイツからのSKYPEとFacebookのメッセージ。
しかしそれ以外の国内の家族や友人とは2時間繋がらなかった。
そんななかJ-WAVEから電話が・・・
電話の声は編成局長。緊急用の特別電話を使ってのコールでした。
「今すぐこれるか?」
その質問に「これはただごとじゃない」と感じました。
しかし、東京の中心の六本木にいても路上にいた僕らに情報はなかった・・・
テレビの撮影も今日しなければいけない。
スタッフと話し合って、残っている撮影を終わらせて、そしてそのままJ-WAVEに向かおう。
その後4時半ごろになって電話やメールが少しづつ復旧してきて
家族や友人の無事を確認することができました。
ホッと胸を撫で下ろす中、撮影は再開され、不安な気持ちも大きかった中
子供たちもがんばってくれて、撮影が終わったのは予定から大幅に遅れて7時頃。
その間もJ-WAVEからは数回、僕の到着予定時刻を確認する電話が。
撮影を終えた僕は衣装から私服に急いで着替えて歩いてJ-WAVEに向かいました。
六本木通りの大渋滞を横目に早足で六本木ヒルズに到着すると、
エレベーターは動いていました。
「早く到着しなければ!」「なにかしなければ」という想いの中33階に到着。
そこで僕はようやく今回の地震と津波の全容を知りはじめました。
知って言葉を失いました。
緊急電話をかけてくださった編成局長やスタッフとともに10時からの
Hello Worldをどういう内容で放送するのかの打ち合わせを始めました。
あまりにも事態が大きく、震災発生当時から放送局にいた方々と、
今まだ震災の全容を理解しようとする僕との間に温度差があったと思います。
それほど理解するのに時間がかかったのを覚えています。
「これは大変なことが起きた」と思いながらも、
なにをラジオを通じて伝えるのか?
不安なまま、確信がないまま10時の生放送が始まりました。
刻々と入ってくる地震と津波の被害・・・
放送中も上がるマグニチュード。
電車が止まり交通がマヒしたここ東京で、不安なまま帰宅できない多くの人々。
そういった中には電話やメールで無事は確認したけど、まだ直接その目で見ていない家族のことを
考えていた方々も多かった。
僕らが伝えられるのは確かな情報と
私達はそれぞれバラバラに孤立していないんだという繋がりとぬくもり。
リスナーからのメールやツイートに助けられた2時間の放送を終え、
歩いて帰宅したのは午前2時頃。
それでも僕は帰宅できた幸運者です。
長い一日がやっと終わった
しかし、長い一年は始まったばかりだった・・・
多くのことが変化したあの日から沢山のことを学びながら
私たちは歩みを進めなければならない。
3/11 14:46 被害にあわれた皆様のご冥福をお祈りいたします
合掌