392 「ジミー、野を駆ける伝説」怒りを胸に、笑顔を | ササポンのブログ

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そして
ケンローチ

書かなくてはならない、
監督は、
でも書いていない監督が

まだまだ
なんと多いことよ

そんななかで、
まだ元気に新作を送り続けている
ケンローチ

はたして
彼のことを知っているひとは
何人ぐらいいるだろうか・・

1967年、長編『夜空に星のあるように』で映画監督としてデビューした。
2作目の『ケス』(1969年)は英国アカデミー賞作品賞と監督賞にノミネートされた。
しかし、社会問題への市民の関心の低さや政治的な検閲が原因となり、
1970年代から1980年代にかけて長い不遇時代を過ごした。

1990年代に入り、
労働者階級や移民を描いた作品を立て続けに発表。

そのうち『ブラック・アジェンダ/隠された真相』(1990年)と『レイニング・ストーンズ』(1993年)がカンヌ国際映画祭審査員賞、

『リフ・ラフ』(1991年)と『大地と自由』(1995年)が
ヨーロッパ映画賞作品賞を受賞し、
国際的に評価されるようになった。
1994年には第51回ヴェネツィア国際映画祭で栄誉金獅子賞を受賞した。

2003年、日本の高松宮殿下記念世界文化賞の映像・演劇部門に選出された2
2006年、『麦の穂をゆらす風』が第59回カンヌ国際映画祭に出品され、
69歳、13回目の出品で初のパルム・ドールを受賞した。

2014年、第64回ベルリン国際映画祭で金熊名誉賞を受賞した。




典型的な左翼系の監督だ

僕は、
右も左も嫌いだ。

正確に言えば
右も左もバカが嫌いだ。

頭がよければ、
まともな議論ができれば
別に、
右でも左でもかまわない。

表に出てくる
右翼はバカが多い

だから
なんとなく
左翼側に寄る

ただ
左にもバカはいる

当然のことだが


映画という総合芸術を統べる映画監督は
冷静なひとは多い

題材を
シナリオという図式にして
眺める

それを組み立てて
削る

そういう作業のうちに
嫌でも
冷静になる

以前にコスタ=ガヴラスの
「ミッシング」評のときに書いたが
左翼系の監督が、
作品のなかで
撃ちぬくのは、
政府という巨象だ

冷静に狙って
1発でしとめなければ
踏み潰される

支配者は
自分と違う考えの人間を
怖がる

だから
かならずその行動、言動を規制する

だから
支配者の対極にいる
表現者は慎重にならなくてはならない




1932年、内戦が終結してから10年がたったアイルランドに、
アメリカで暮らしていた元活動家のジミーが戻ってくる。

故郷のリートリム州で
年老いた母と穏やかに暮らそうとしていたジミーだったが、
村の若者たちは、
かつて地域のリーダーとして絶大な信頼を得ていたジミーを頼り、
さまざまな訴えを投げかけてくる。

彼らは、ジミーに『ホール』を再開してくれと
懇願する

人々が芸術やスポーツ、
歌やダンスを楽しみ、人生を語らうことのできるホール(集会所)

文化は
自由。
その自由を一番、恐怖するのは
支配者

ケンローチは
「麦の穂をゆらす風」で
アイルランドの独立運動
その後に起こった
泥沼の内戦を
容赦なく描いた。

理想を持って独立を勝ち取った後の
内部分裂

よくある話・・・だ

でもそれは本物の絶望だ

理想なんてのは
自由なんてのは
本当は望んでいないのだ
人間は・・・

ただ
ひたすら殺しあうのが人間

それは
左翼運動家の
ケンローチにとっては
絶望の結論だ

この映画の後
ケンローチは
少しアイルランド独立問題から
離れた。

恐らくは
このままではいけない・・と
思ったのだろう

人間に絶望したままでは
いけない

でも、
どんなに考えても、
結論は、
絶望しか出てこない

8年後
ケンローチは再び
アイルランドを描いた

絶望の内乱のその後を



この映画で、
ケンローチは丸くなったという人がいる。

確かに表層はそう見える。

まず
この映画の主人公ジミーは、
抑圧に対して暴力を使わない。
とにかく、話し合いでなんとかしようとする

そんなのが、
甘い現実なことは、
ケンローチは、百も承知だ

その証拠にどれだけ話しても、
理解を求めても、
抑圧はなくならない。

それなら、もう
暴力しかない・・と
でもそうなった果ての始末は、
もうケンローチは散々見て来ている
描いている
どうにもならないことは
わかっている

そこで彼はどうしたのか?

若い人たちに自分の姿を見せた

ダンスがしたいだけなのに
詩を朗読したいだけなのに
絵を描きたいだけなのに

それだけのことに対して
支配者たちが、
自分たちになにをしたのか?
それをただ身を持って見せた

恋人からも
母親からも
引き離される自分の姿を見せた

その姿が問いかける?

君たちはどうするんだい?

また
暴力で、
血を流して闘うのかい?
それもいい

でも結果はやはり暴力しか残らない

ケンローチは、
もう自分たちの世代に
絶望しているのかもしれない

この映画の製作の過程で、
なんとも象徴的なエピソードがある

いまだにフィルムで編集しているケンローチが、
ある機材素材を切らして困っていた

そんな彼を助け
素材を提供したのは
アメリカのピクサーの若者編集者たちだった。

主人公が
ラストに若者たちに見せる笑顔は
きっと
ケンローチの素直な気持ちだったんだろう