
あれ、どうやって、書いてたっけ?
写真を、真ん中にやるのは?
本文を、真ん中に寄せる方法は?
わーすれた、わーすれた
ぜーんぶ、わーすれた。
ということで、今年の3月以来の映画評で、ございます
この映画、とにかく、なにが個人的に嬉しいかといえば
脚本のマックス・ランディスの名前。
ランディスの名前を聴いて「おおおお!」とならないひとは
このブログから退場です。
そうあのジョン・ランディスの息子です。
ジョン・ランディスを知らない?!
退場です!!
そのマックスくんの脚本、
ジョシュ・トランク監督のこの「クロニクル」
ある意味、映画の過去であり
未来でもあるのですよ。
あいかわず
訳わかんないこと言ってます
はい、
僕は変わってませんよ。
この映画、最近流行りの、
ファウンド・フッテージという形式です
映画 (やテレビ番組) のジャンルの一つで、
モキュメンタリーの一種。
撮影者が行方不明などになったため、
埋もれていた映像という設定のフィクション作品。
撮影者と無関係な者の手に渡り、
そのまま公開されることになった設定である
ウィキさんより
僕は、このモキュメンタリーという形式が
嫌いです。
中には、傑作もあるみたいだけど、
大体は、
形式だけが、流行りだからやりました。
別に、普通でも、いいんですけど・・みたいなのが、
多い。
それなら、普通に撮れよ・・と思ってしまう。
もしこの映画が、見る前に
ファウンド・フッテージ形式だということを
知っていれば、
見なかったかもしれない。
でも、何も知らずに
1000円だからということで、
見に行ってよかった。
とにかく、
見事な映画。
ファウンド・フッテージ形式を
物語上の必然性として
最大限に生かす。
もし、それがうまくいけば、
映画という表現のひとつの未来が見えてくる。
この映画は、
主人公の高校生、アンドリューが、
自分の生活の全てを、ビデオカメラに撮る・・という
決心するところから、はじまる。
映画の中心は、このアンドリューの撮った画像が中心に
展開される。
アンドリューと
従兄弟のマット
そして
皆の人気者、黒人のスティーヴが、
超能力を手に入れたことで大騒動だ起こる。
これは、監督のジョシュ・トランクが言っているが
「キャリー」「AKIRA」の影響を、
非常に受けている。
まず
主人公のアンドリューくんは、
キャリーのようにいじめられっ子で超能力者。
彼の周りで起こる騒動は、
すべて彼の惨めな状況が、
彼を追い詰めたゆえの結果だ。
「AKIRA」に似ているのは
人間的に、優れて人気者の影で、
コンプレックスを感じていたアンドリューくんが
超能力を得ることで、
優位に立とうとするところだ。
このアンドリューくんが撮った映像で、
二人の友だちとの日常が
表現される。
最初に、能力を得た3人の日常は
本当に楽しい。
人知を超えた能力を持っているのに
やっているのは、
スカートめくりという
万国共通のバカ高校生ぶりが
楽しい。
やがて、
自分の能力により
空を飛べることができるようになったとき
彼らの歓喜は頂点に達する

脚本のマックス・ランディスがいっているが
能力を持ったとしても、
日常の問題は、
人生の悩みは、
変わらない・・。
アンドリューくんの惨めな日常を
能力によって変えようとしたら、
もう破壊しかないのは・・
キャリーも同じ。
後半、アンドリューくんは、
カメラを自分に向ける。
どうやって自分を撮り続けたかは
映画を見て確かめてもらいたいが、
本当に、見事な表現方法だと思う。
この自分に向かってカメラを向けるという行為が
思春期特有の、
未熟な
自己陶酔と
強烈な
自己否定を表す。
僕を見て欲しい
僕を見るな
この矛盾した感情を、
自分に向けたカメラが生々しく映し出す
やがて、
破壊に向けて暴走するアンドリューくん。
そのきっかけが、
あまりにも稚拙だけど切ない
なぜなら
誰でも身に覚えがあること
普通の男の子なら、しばらくの落ち込みで
ことは終わる。
しかし、
アンドリューくんのさらに惨めな日常と
人知を超えた超能力が
悲劇を呼び込む。
とても、
低予算とは思えない迫力の
破壊の数々を、
TVニュースや、やじうまの携帯の映像
街頭の監視カメラの映像で畳み掛ける
もう、
悲しいぐらい必然のアンドリューの自滅が
観客に迫ってくる
それは、どんなに憎しみの相手を殺したとしても
なにも変わらないし
カタルシスもない
キャリーと重なる。
思春期特有の
未熟な、でも切実な悩みは
超能力なんかじゃ、解決しない。
それは
同じ思春期を超えてきた僕やあなたの
胸に迫る悲劇なのだ。