「カイロの紫のバラ」は、
私を映画ノスタルジィに誘い込む映画であった。
まず
カイロとバラのこの二つの文字が
活動写真の匂いをあふれさせた。
サイレント映画の中のカイロは
そのシーンとそのシーンの伴奏までも
思い出させるくらいカイロの映画のいかに貧しくも安っぽい映画が
多かったことかと思わせているうちに
バラとなるとこれは「奇蹟のバラ」から「情熱のバラ」から「バラ祭り」からもはや
バラはサイレント映画の涙と美女の代名詞のごときものでさえあった。
そこまではよろしい。
ところがウディはこれに「紫」の一文字を加えたから
仰天したものであった。
この紫の一字を加えた「カイロの紫のバラ」なる題名の
何たる安っぽさ何たるサイレント二流映画の懐かしさ。
ウディがここに「紫」の一字を加えたことが面白い。
purple
このてれさくいまでの古めかしいスイートな文字の懐かしさ
その懐かしさには
活動写真の画面よみがえるばかりの懐かしさをもって
それがこみあげてきたのである。
忘れもしない大正六年頃のフランシス・フォード監督主演の連続活劇「紫の覆面」
同じくバートンキング監督のユニバーサル映画だった
連続活劇「三日月の下の紫菖蒲」
ヴァイタグラフ映画のこれも連続の「紫の騎士」
(中略)
すでに
この映画がキートンの「忍者キートン」のパロディのことを
誰もが思い出されたであろう。
これはのちに
「キートンの探偵学入門」と改題されて再上映されている。
映画館の映画技師が映写中に眠ってしまい
その彼の分身が映写室から抜け出して
今しも上映中のその映画の画面に入ってしまう
珍喜劇であった。
(後略)
前、中、後で
略した部分にも、
映画の記憶がぎっしりと詰まっている。
このひとの頭の中に
一人の人間の頭の中に
一体
どれほどの知識が詰め込めるものなのだろうか・・。
もちろん
このひとは
資料を観なくたって、この程度は書けるだろう。
なんせ
メモも観ないで
ベラベラと1本の映画について
何時間でもしゃべられるひとだ。
さらにいえば
この流れるような独特の文章。
日本語的には国語的にはいかがなものか・・なんていう
凡庸人の戯言を吹き飛ばす
その流麗さは
宮沢賢治に通じる。
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知っている映画の知らない部分が
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