238 「日曜日には鼠を殺せ」 全 本当に許せねえのは・・・ | ササポンのブログ

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原題は、もうなんべんも、なんべんも
いろんなところで
引用されまくっている
青ざめた馬・・のあれである。

さて、
赤狩りに抵抗したという意味では
監督のフレッドジンネマンは、
左向きのひとであります。

当然のことでありますが、
ハリウッドの主流からは外れた
骨太な反抗的な作品を撮るひとであります・・・が
その辺のところで
最近、僕が感じているところを含めながら
書きすすめたいと思います。

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タカ派が主流を占めていた当時のハリウッド
いや
アメリカ社会で
ジンネマンのような左翼のひとは
住みづらい。

それが顕著となったのが
赤狩りでした。

数多くの才能ある映画人が
仕事を失い
信頼を失い
憎しみと決裂を生んだ。

この映画は、
そんなジンネマンの政治的な姿勢が表れた映画ではあります。

1939年スペインの内乱はフランコ軍の勝利に終わった。
ゲリラのリーダーだったマヌエル(グレゴリー・ペック)は
国境を越えフランスに亡命、

20年の歳月が流れた。かつての英雄も年老いて今は知る人もない。


ある日パコという少年が訪ねてきて、
かつての彼の友であったという少年の父を殺した
警察署長ヴィニョラス(アンソニー・クイン)を殺してくれとたのまれたが断った。


その警察署長はこの20年マヌエルを捕まえることだけに生きてきた。
gooさんより


年老いてしまった、かっての革命の英雄を観た、
少年の落胆と軽蔑。

恐らく散々に聞かされてきたであろう
英雄の
荒れた姿を観る少年のその視線。

それは
理想を持って戦った革命家にとって
やりきれない視線だろう。

本来のハリウッド映画であれば
この英雄が
再び勇気を振り起こして警察署長を殺す・・・という
ストーリーになるだろうが・・・。

実は
物語はそういう方向に進んでいく。
しかし
そんな主人公に対しての
少年の軽蔑の視線は変わらない・・・のだ。

なぜか?


ここからは
ネタバレとなります。ペタしてね

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スペイン国内では
警察署長が浮気しながら
モンモンとしている。

どうしても
ゲリラのリーダー、マヌエルを捕えたい、殺したい。

しかし
国外に逃亡していて手が出ない。
そのときに
マヌエルの母親が重病で死にかけていると聞く。
その情報をマヌエルに流せばやつはくる。

彼のかっての仲間、密輸商人カルロスを
使者に仕立てて、
マヌエルに
母親危篤の情報を伝えた。

ただ
その母親も、
死の間際に
神父であるフランシスコ(オマー・シャリフ)に
自分の死と、警察署長の罠を知らせてくれと伝言した。
帰ってくるな・・と伝えてくれと。

マヌエルは
このふたつの情報に悩み混乱する。

かっての仲間を信じればいいのか
神父を信じればいいのか・・。

物語は
とてもシンプル。
しかし
それぞれの人間の内部の
葛藤はシンプルにはいかない。

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かっての革命の英雄を演じるグレゴリーペックと
警察署長のアンソニー・クインは
単純な
英雄でも
法の番人ではない。

人間らしい欲望と名誉欲を持つ
俗人である。

一見、
典型的な神父に見えるオマー・シャリフも
一筋縄ではいかない過去を持っていた・・。

それらの感情を
クダクダとセリフでは表現しない。
その行動で端的に示す。

よく出来たシナリオと端正な演出で
観客を
引っ張っていく。

そして
一筋縄ではいかない物語が
その極みに達するラストシーン。

「なぜ罠と知っていて、あいつは帰ってきたのだ?」

警察署長のアンソニー・クインは、
戻ってきた
宿敵マヌエルを始末したあとに
釈然としない気持ちでつぶやく。

それは
死ぬと知りながら行かざる得ない
やくざ映画の
そして
「ワイルドバンチ」の男たちのような
美学ゆえなのか

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美学と言えば
簡単だろう。

やむにやまれぬ衝動によっての行動。

もし仮に罠であっても許せないやつがいる。

それは
警察署長・・ではないのだ。
裏切った
仲間のカルロスなのだ。

それを証拠にカルロスと警察署長をどちらも撃てる・・というときに
迷った挙句
マヌエルは、カルロスを撃ったのだ。
そして
結局、自分の場所がばれて警察署長を殺しそこなっている。

マヌエルが危険を犯してまで
故郷に戻り、仕留めたかったのは
権力の象徴ではなく
裏切った仲間だった・・・。

これがなにを意味するのか?

それはみたひとで考えることでしよう。
監督が明確な答えを出してませんから・・。


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ここからは、
この映画に少し関係ないけど
最近、
ちょっと思ったことです。

「インビクタス」という映画を
僕は
イーストウッドらしいB級娯楽映画と言いました。

B級といったのは
世間でいえばけして軽く扱ってはならないような
人種隔離とか、ネルソンマンデラという存在をも
娯楽として
最適な形で取り入れ、
娯楽映画として完成させていたからだ。

ところが
映画評とかを読んでいると
なんか
イーストウッドがマンデラやアパルトヘイト問題に対して
真剣な問題意識を持って取り組んでいるように
書かれているものがある。

ぶっちゃけて言ってしまうと
もし
人種隔離とかマンデラの人物像を
真剣に本気でやろうとしたら、
こんな娯楽映画にはならなかったと思う。

それは
「バード」を観れば明らかである。
マンデラという人物は
パートと同じぐらい問題の多い人物であることは
イーストウッドも知っているし、
インタビューでも答えている。

南アだって、いまでも平和ではない。

もちろん
ふざけて扱っているわけではない。
しかし
本気になって徹底的にやろうとはしていない。
僕は
その距離感というかある種のえげつなさが
イーストウッドだと思うのだ。

つまり

なにが言いたいかといえば
あまりにも世間がイーストウッドを神聖視し過ぎてはいないか?

イーストウッドは神ではないぞ。
彼が創るもの、発する言葉は
神からのメッセージじゃないぞ。

だから僕は言うのだ。

たかが映画・・と。
なんか
僕の癖としてまわりがあんまり持ちあげるので
少し冷静になってしまっている・・。

なんで
こんなことをこの映画の評に書いたかと言えば
この映画も
とてもまっとうな娯楽映画ということなのだ。

確かに
深読みすれば政治的な意図は見え隠れするが
普通にサラッと見れば
とてもよく出来た娯楽映画なのだよ・・。

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