
いきなり画像が3枚続きました。
いやはや、もう画像が多い、多い、大井競馬場は馬券が当たらない
いまさらながら、
ブレードランナーです。
もうみなさん、十分にご承知だとは思いますが
僕はひねくれもんです。
ひとが言っていることを
いまさらここに
書いても仕方がない・・と思っています。
この映画に関してはあまりにも語られ尽くしています。
素晴らしいものなのに
なにも誰も言わない作品なら
もう念入りに、
ネチネチとひつっこく語りますが
こう色々といわれていると
今更という気が起きますが
かと言ってなにも言わないのも
しゃくでありますので・・。
どこからどう見ても
大傑作。
他に真似できないオリジナリティに満ちた
揺るぎない名画です。
2019年。
この頃、地球人は宇宙へ進出し、
残された人々は高層ビルの林立する都市に住んでいた。
デッカード(ハリソン・フォード)は、
ガフ(エドワード・ジェームズ・オルモス)と名乗る男に本署へ連れてこられる。
そこで彼は元上司のブライアントに、
レプリカント4名が地球に侵入したので、
彼らを見つけ出せと命じられる。
レプリカントとは、遺伝子工学の新技術によって生産された人造人間で、
宇宙探索や植民地惑星での危険な労働に従事し、
あらかじめ死期もセットされている。
ブレードランナーはレプカリントの犯罪や叛逆にそなえ、
彼らを識別し抹殺する刑事のことで、デッカードはなかでも一流だった。
GOOさんより
こういうカオスな作品ゆえか
そして
語られることが多いゆえか
色々な説が唱えられています。
その中でも一番有名なのが「デッカード、レプリカント説」
ま、これは監督も認めていることなんだから
事実なんだろうけど
それは
どうなの・・と思ってしまうのは
僕だけ?
つまり映画を普通に劇場で一回見ただけでは
はっきりとわからないようなことは
どうでもいいこと・・なのではないでしようか?
僕は
ビデオでLDで何度も観ているけど
そんなことを
はっきりした形で示唆したシーンは
ありませんでした。
あったとしても
しっかりと・・ではありません。
別に監督が後からなにをしようが
どんなふうに作品をいじろうが
勝手ですが
純粋な観客には最初に公開された映画がすべてであり、
それが
素晴らしくなければ
あとからどれだけ作り直そうが
それはただの後付けです。
そんな後からいじりの屁理屈はこれぐらいにして
最初に公開されて、
全然、ヒットしなくて
ハリソンフォードがブチブチ文句を垂れていた頃の
あの頃に戻って
純粋にこの映画自体を語りましよう。
やはりこのオープニングのイメージと
音楽には度肝を抜かれます。
あまりにも怪しい魅惑に満ちた都市風景・・
瞳に映る炎・・。
そして
あの最初のブレードランナー銃撃シーンの部屋の照明
もう完全にリアリティとは浮遊した
ライティング・・。
それは
この映画全編に渡って統一されている。
暗いのではない
かといって
必要なところを照らしているだけではない
照明が
ひとつのセットとして
画面を構成している。
それはもう想像を絶するほど
手間のかかる作業であることは
映像を撮ったことがあるひとならわかるだろう。
たとえば
このブラッドベリー・アパート
この映画で有名となって
のちに
日本のCMや
PVなどで
何度も使われたが
とても凡庸な
この場所を使う必要のない画面になっていた。
元々
日本の映像クリエターには
照明がひとつの芸術であるという発想が薄い。
有名な監督の中にも
照明に凝る人は少ない。
元々
近未来のフィルムノワールを目指したこの映画
暗い淀んだ世界に、
刑事が追跡劇を繰り広げるというコンセプトは
恐ろしいほど
表現されている。
最も映画的であり
最もノワール的な
雨も
全編に渡って降り続く・・。
追跡を開始した
デッカードがまずたどり着いたのが、
蛇ダンサー、ゾーラ
デッカードが、
彼女にたどり着くまでの捜査の過程が
もうたまらなく見事で
僕は
この映画の中で一番、好きなシークエンスだ。
ボイスセンサーを備えたコンピューターによる写真のスキャン。
その音と映像・・。
実際、アップにするときにコンピューターがあんな派手な音はたてないだろう・・が
それがアナログな、昔的な雰囲気を醸し出す。
アップになるのも、
スッとなるんじゃなくて
カッカッカッという感じていくのも
どこかアナログである。
そして
なによりも美しいのがゾーラの射殺シーン

逃げるゾーラが
後ろから撃たれて
ショーウィンドーのなかを
ガラスを突き破りながら
倒れる・・。
そこに
人口の雪が降り注ぐ・・。
なんていう美しく残酷なシーンだろう。
これこそが
この頃のリドリースコットの
美の極致・・。
ダリルハンナが演じるレプリカント
プリスの強烈な射殺シーン・・。
逃げるアンドロイドを殺す・・
いや・・処理する・・というには
あまりにも残酷さ・・。
それによって
デッカードが内的な苦悩を抱える・・という
リドリースコットの構想は
とてもわかるが
正直
ハリソンフォードの演技がついていかない・・
好き嫌いは別として
ハリソンフォードに内的な苦悩の表現を求めるのは
酷というものだ。
ショーンペンなら
飯を食っているだけでも
内的苦悩を表現できるが、
ハリソンさんには無理である。
その変わり
恐ろしいほどの存在感を持って
レプリカントの苦悩を表現した男がいた。
もうご存じ
お待たせしました。
ロイ・バッティこと、
ルトガー・ハウアー
この男に説明は不要でしよう。
この映画を
哲学的なアートに仕上げられたのも
このひとの肉体と表情のパフォーマンスのおかげです。
このラストシーンの
追っかけ
そしてロイ・バッティの終焉・・・
ただ、ただ
もう見ていたい・・いつまでも見続けていたい、
滅びの極美です。
その持てる才能を結集して撮りあげた
その美を
興行的な失敗によって
非難されたと取るのは
勝手である。
しかし
それを自らの行動によって
さらに辱めるのはやめたほうがいい。
この映画とそのあとの「レジェンド」で
リドリースコットの映画監督としての
輝かしい歴史は終わりました。
自らの世界観を興行的な結果として残せないからと言って
その挑戦をやめてしまった映画監督に
僕は用はありません。
まだまだ
語りたい素晴らしいシーンはあります。
本来の僕なら
数回にわたって語りつくしたい映画です。
でもこれで終わりです。
それは
リドリースコットに対する
激しい絶望ゆえです。
僕は
才能があるのに
それを出さないで
適当に軽い程度でものを作る人間が
死ぬほど嫌いです。
I guess you're through, huh?
「終わりましたね」
ガフ(エドワード・ジェームズ・オルモス)が
最後にデッカードにかける言葉を
そのまま、
リドリースコットに送ろう