
ある一定の精神状態のひとにとって、
この映画は、神と化す。
それは、世の中、自分以外は、ゴミであり、糞である、
見ているだけでも吐き気をもよおす。
自分以外は、
すべて唾棄すべきものであり、
自分以外の者は、
存在価値などゼロである・・と思う時。
身体じゅうが怒りと性欲が渦巻き、爆発寸前。
そんな自分の怒りが、他人に正当に評価されず、
さらに怒りが、自分の中にたまり、暴発寸前となる。
つまりは、
この映画の主人公のトラビスみたいになってしまった時だ。
思春期の男の子は
大なり小なり、こんな状態であり、この映画に感動するのもこの時期である。
ただ感動するだけではなく、
この作品が神と化してしまう特異な人間もいて、
ジョディフォスターにラブレターを送り、
レーガンを殺そうとしてしまったり(実話)
脚本家のポールシュレイダーの「MISIMA」という映画の撮影現場に、
エキストラとして参加して、
パンフレットにサインを貰ったりしてしまう。(実話、僕です)。
ところが、ある程度、
年を取ってくると、この映画が
よく計算され練り上げられた、
知的レベルの高い宗教映画であることがわかってくる。
ポールシュレイダーがこの脚本を書くときに下敷きにしたのがサルトルの「嘔吐」。
周りのすべての存在に、嘔吐を催す主人公・・。
それをスコセッシが、
「ミーンストリート」「ドアをノックするのは誰?」などの初期作品から
こだわり続けていた宗教的な暴力衝動によって描いた。
暴力によって街は、浄化された・・と思っているのは、
主人公だけであって、
実際は、ポン引きをぶっ殺して、
薄汚い娼館をつぶしただけである・・という、あの種の悲しいファンタジー。
基本構成は、
ポールシュレイダーが大好きな、
日本のやくざ映画、そのものである。
最近、
日本でも
生きていく目的のない
だけども
自己顕示欲ばかり肥大した男たちが
人を殺すことで
その憤懣を充足させている。
その男たちの気持ちを
知りたいと思ったひとは
この映画を見るといい。
トラビスは
ただの殺人鬼である。
日々の生活でためたお金で
おびただしい数の銃を買うしかなかった、
暴力衝動の塊である。
ぶちころしたのが
街のゴミのような連中であるし
結果、娼婦が助け出されたので
ヒーローのように見えるが
冷静に見れば
ただの殺人鬼、
アキバのトラック野郎と大差ない。
それならなぜ
若い人間が
彼の姿に感動して
神として崇められるような映画となり得たのか・・。
そこには
脚本のポールシュレーダーの緻密な構成と
スコセッシの卓越した演出があり、
そして
デニーロの類まれなる、比類なき演技力がある。
カメラをトラビスという存在から外さないことによって
観客を彼の気持ちに添わせる。
タクシードライバーという客観の職業を設定することによって
社会の屑を見せ
それを一掃してやる・・というトラビスの気持ちに
観客を誘う。
そして
やくざ映画の殴り込みのカタルシスで
映画そのものを高揚させる。
オリジナリティとよくひとは言う
それは
その人の内部に元々
存在しているモノではない。
恐ろしいほどの研究と
自己探求の末に
作り出されるものだ。
スコセッシぐらい映画を、
そして物語を
研究している監督は、
アメリカでは珍しい。
スコセッシは、
今村昌平のドキュメントで
彼の映画についてコメントしていた。
今村昌平の映画を観ているハリウッドの監督が
何人いるだろうか。
遠藤周作の「沈黙」の映画化を熱望するほどの
勉強熱心なやつがアメリカに
いるだろうか?
スコセッシは
まぎれもなくオリジナリティのひとである。
唯一無二のフィルムメイカーだ。
だからこそ
彼に
出来そこないのリメイク作品など
撮って欲しくなかった。
それが
自分が作りたい映画に
お金を出させるためのものでも、
作るべきではなかった。
僕は待つ。
もう一度のスコセッシのオリジナリティを。
是非、遠藤周作の「沈黙」の映画化を実現、そして成功させてほしい。