ストーリーです。
いつものように読んでも読まなくてもいいです。
「道に迷ったろくに訓練も受けていない米国兵のビリー・ピルグリムは、ドイツ兵に捕らえられ、ドイツのドレスデンにある使われていない屠殺場の奥深くに設けられた代用監獄で生活することになる。ビリーはその理由は説明されていないが「時間の中に解き放たれる」(ただし、後に、飛行機事故を生き延びた際に軽い脳障害が残った結果、死を含む人生の様々な時点を無作為に繰り返し訪れることが示唆されている。)。彼はトラルファマドール星からきた地球外生物に会い、後には誘拐されてトラルファマドール星の動物園でポルノ映画のスターのモンタナ・ワイルドハックとともに展示される。トラルファマドール星人は、物理的にはトイレのプランジャー(吸引具)と似ていて、四次元(4つめの次元は時間である)を見ることができる。トラルファマドール星人はその人生のすべての瞬間を既に見ており、その運命を変えるような選択をすることはできないが、自分が集中したいと思う人生の瞬間を選んで焦点を合わせることはできる。この小説を通じて、ビリーは時間の中を行き来し、人生の様々な場面を何度も追体験する。このせいで、次に人生のどの場面が現れるのか分からないビリーはいつもあがり症を感じることになる。彼はトラルファマドール星で時を過ごし、ドレスデンで過ごし、捕虜になる前の第二次世界大戦中のドイツで深い雪の中をぼんやりと歩き、戦後のアメリカで結婚生活を送り、何年も後の地球上での彼の殺人の瞬間に向かう。彼の殺人の時までに、ビリーはトラルファマドール流の運命論を受け入れており、すばらしい個人的な平和を手に入れて、この哲学を多くの人々に広めて地球上で有名な人物になる。ビリーの運命論は現実(少なくともビリーが知覚した現実)に基づくもののようである。ビリーがオフィスに平安の祈り (Serenity Prayer) の写しを持っていることに気づいた後、語り手は言う。「ビリー・ピルグリムが変えることのできないもののなかには、過去と、現在と、そして未来がある。」トラルファマドール星人の誘拐者のうちの人間に同情的に見えたひとりは、彼が訪れたことがある31の生命が住む惑星のうち、「自由意志といったものが語られる世界は地球だけだった」と言う。この本は、妻の死や、第二次世界大戦でのナチスによる捕囚や、この本を書くきっかけとなったドレスデン爆撃など、ビリーの人生で起きた他の様々な出来事も分析する。この小説では特定のフレーズが繰り返し使われている。例えば、死(人であれ動物であれシャンパンの泡であれ)にふれる時には「そういうものだ」という語が使われ、死すべき運命を軽く見せ、死がありふれた事でユーモラスでさえあるかのようにしている。また、「芥子ガスとバラ」が、腐乱した死体のひどい臭いや酔っぱらいの息に対して使われている。ビリーの死は、奇妙な一連の出来事の結果である。戦闘の間、仲間の兵士のローランド・ウェアリーによると、ビリーは信じられないほど戦闘に不向きで、そのせいで2人は捕虜となった。ウェアリーが捕虜になったことを(そして死ぬことも)ビリーのせいにするので、ウェアリーの陰気な友人で、復讐は「人生における最も甘美なもの」なものと考えるラザーロは、ビリーを殺すと誓った。時を旅行するビリーは、いつどうやって自分が殺されるのか知っていた。アメリカ合衆国が多くの小国に分裂した未来に、公衆の前での演説中にラザーロに撃たれるのである。ビリーは演説中に、演説が終わると自分は殺されるだろうと宣言し、この事実を自分のメッセージを伝えるために使う。時間は、3次元の切片に加わるもうひとつの次元であり、我々はその切片が同時に存在することを知っているのだから、誰もが常に生きており、死は悲しいものではないと。
はいはい、そこのあなた、目まいを起こさないように。
これが、ウィキーさんに載っていたスローターハウス5の小説のストーリーです。
映画も、同じようなものです。
それにしても、もっと簡単に、
おもしろく書けないものだろうか・・。

時間を因果関係としてではなく、その始まりから終わりまで同時的認識としてとらえた瞬間、私たちが当然あると考えている自由意志は「解体」され、代わりにあるべき未来のとおりに行動すべきである、という必然性のみが立ち上がってくることになる。これが意味するところは明確だ。なぜ人間は戦争を引き起こすのか、なぜ人間どおりで殺し合わなければならないのか、なぜ大量殺戮などということが起こってしまうのか――こうした「なぜ」という、いまさらどうすることもできない事実をあえて問わずにはいられない精神そのものを、本書は放棄してしまっているのだ。あるいはこんなふうに言うこともできるだろう。著者が体験したドレスデン無差別爆撃がもたらしたものは、「なぜ」と問うこと自体がむなしくなるほど壮絶なものであったのだ、と。
検索したスローターハウス5の評論の一部です。
はっきり言って、僕は高卒です。
だから頭が悪いです。
引用させてもらって言うのもなんですが、
なにが書いてあるのかさっぱりわかりません。
スローターハウス5の原作者はカート・ヴォネガット。
現代のアメリカ文学界で、
最も語られることが多い作家。
おびただしい数の評論本が出ている。
でもそのどれも
実際のヴォネガットの小説よりも
数百倍、つまらない。
誰が書いた評論、賞賛の言葉よりも、
ヴォネガットの小説はおもしろい。
彼自身がカメオ出演した「バックトゥスクール」という映画で、
こんなシーンがある。
この映画は、金持ちの親父が唯一の夢であったカレッジライフを楽しむために
息子の大学に入学して、大暴れするというたわいもない、観る価値のないギャグ映画。
この親父が、課題に出た「ヴォネガットについて」という小論文を書くのが面倒くさいので、
金を出して、ヴォネガット本人に書かせた。
ところが評価は、Cマイナス。
この教授が、論文を返す時に、叫ぶ。
「おまえは、ヴォネガットのことがわかってない!!」
日本では、全然、うけなかったが、アメリカじゃ大爆笑だったろう。
なんで、関係ない映画まで引き合いに出して、
なにをここまでクダクダと書いてきたかと言えば、
この映画「スローターハウス5」は、理屈ぬきにとてもおもしろいということ。
だって監督は、
ジョージロイヒルですよ。
彼が、そんな難解な、訳のわからない
六大学出てなければ理解できないような映画を
撮るわけないじゃないですか・・。
マリアンの友だちTHE WORLD OF HENRY ORIENT
ハワイHAWAI
モダン・ミリー Thoroughly Modern Millie (1966)
明日に向って撃て! Butch Cassidy and the Sundance Kid (1969)
スローターハウス5 Slaughterhouse-Five (1972)
スティング The Sting (1974)
華麗なるヒコーキ野郎 The Great Waldo Pepper (1975)
スラップ・ショット Slap Shot (1977)
リトル・ロマンス A Little Romance (1979)
ガープの世界 The World According to Garp (1982)
リトル・ドラマー・ガール The Little Drummer Girl
数少ないけど、
これらの作品は、
すべて傑作です。
すべてが、
ぜんぜん違うスタイルを持った
極上の娯楽映画であることは、
映画ファンならすでに承知している。
こんな彼が、難解な映画など撮るわけがない。
じゃ、この映画は原作からかけ離れたものかと言えば
全然、そうじゃない。
それを証拠にヴォネガット本人は「小説よりもおもしろい」と
この映画を絶賛している。
ジョージロイヒルというひとは、
どんなに状況が絶望的であろうとも、
それをただ絶望的には取らない。
それどころか、
絶望的であればあるほど
明るく希望に満ちて描く。
そういう風に描けば描くほど
その絶望は、
より深く悲しく観える。
死ぬ道しか残されていない
ブッチとサンダンスの逃避行を、
まるでお気楽なリゾートのように描く。
そうすることによって、
彼らの絶望がより深く見えてくる。
それは、
ボネガットにも
そして
かれが敬愛する
マークトゥエインにも通じる世界観だ。
原作のエピソードを
ピックアップする際に、
そしてそれを映像化する時に、
その作家の世界観と
監督の世界観が、
同じでなければ映画はつまらなくなってしまいます。
同じでなければ、
映画はその小説を映像化する意味は
ありません。
この映画は、
ジョージロイヒルという知性と娯楽のバランスの取れた稀有な映画作家が、
ヴォネガットという最も勘違いされた作家の
本当の姿を描き出した。
つまり
「ヴォネガットの小説は、すごく絶望的で、すごくおもしろいんだよ」