旧約聖書のゲーム理論―ゲーム・プレーヤーとしての神/東洋経済新報社

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旧約聖書で、神と人間をプレーヤーとし、お互いのエゴが対立するゲームとして、解析してみた本。
もちろん、全知全能の神がその創造物である人間などとエゴをむき出しでゲームすることなど不要のはずだが、
神にとっての効用は、人間が神に従うこと
人間にとっての効用は、神に従わないこと
をそれぞれ第一順位と仮定する。
また、神にとって第一順位として、人間が神に従うことにより、人間はエゴを抑圧されるだけでなく、例えばアブラハムがイサクを生け贄にされかけたように、犠牲も強いられる。
しかし、神は人間が人間にとっての第一順位を選択せず、神に従う選択を行うことで、イサクを助命するだけでなく、アブラハムをいわゆる祝福し、人間にとって、最悪の結果である、エゴを抑圧される、イサクを失う、という第四位の結果ではなく、『神に従う、イサクを失わない、祝福される』という第二位の結果を得ることになる。
この展開は、旧約聖書のすべてに通じて共通の展開であり、時に人間がエゴを優先した場合には、バベルの塔よろしく、『人間はエゴを通す、神の罰を受ける』という第三位の結果を得ることになる。
もちろん、自由を、もしくは死を、という高潔な精神が犠牲という結果よりも優先されるという考え方もあり得るが、どちらも得るということは、あり得ない。
結論として、神は、創造物たる人間にエゴを抑圧することを条件に助命し、神の栄光を証明する。
人間は、神を畏怖し、エゴより神を優先することで、神の栄光を証明する。
旧約聖書は、神と人間が、人間にとって、第二順位と思われる結果を選択することで、神の栄光を証明する物語である。
アーメン。
神に栄光あれ。と願ってやまない笹尾明孝でした。
ハレルヤ。