明日、太陽は、死ぬ | 空堀ホイホイ

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ベロベロバー

ちょいと、本日は仕事を抜けだして、会社の近所の、以前から気になっていたところへ行って来ました。

へへ、ちょっとだけ、おさぼりさんでした。

そこは、長堀通りなんですけど、なんと、江戸時代に、そこで、天文観測してた跡があるんです。

なにわびと

間長涯(間重富)「幕府も絶賛した町人天文学者」
 


地下鉄長堀鶴見緑地線の西大橋駅を下車すると、地上は、ちょうど長堀通りの中央分離帯に出る。階段出口に自転車駐車場があり、その西側に「間長涯天文観測の地」の碑が立ち、碑のすぐそばには「富田屋橋跡」と刻まれた小ぶりの石碑が置かれている。

町人天文学者・間長涯(はざまちょうがい)は本名を重富(しげとみ)といい、今から約250年前の宝暦6年(1756年)、この富田屋橋北詰の質商十一屋の六男として生まれた。

幼少期から数学を好み、12歳で天体模型を模造する天才として成長、20歳ごろから家業のかたわら、天文歴学書を読み、研究を深めて先輩の麻田剛立(あさだごうりゅう)に師事、40歳の時、同門の高橋至時(よしとき)とともに、司に代わって幕府の改暦事業に参画、3年を費やしてそれまでの最高の精度を誇る「寛政歴」を完成した。

時間を年・月・週・日などに区分し、その単位によって時間を計るのもを暦といい、その体系の定めを暦法という。長涯は、自ら考案した機器を駆使して観測技術を一新、高度の暦法を作り上げたのである。

幕府はその功績に対し、直参に取り立てようとしたが、長涯は武士になることを好まず辞退、以後幕府の天文測量を担う御用町人として活躍した。

長涯が、富田屋橋の自宅の蔵に建てた櫓から望遠鏡を覗く時は、御用観測として一般の通行を制限したという。

文化13年(1816年)60歳で没。墓は天王寺区茶臼山町の河底池和気橋南詰、統国寺にある。




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長堀通りは大阪市内中央辺りを東西に走る幹線道路なんですが、道幅も広く、御堂筋や四ツ橋筋と違って、比較的空が大きく見えるんです。

特に、日の出、日の入り、月の位置が、なんとなく、確認しやすいんですね。

印象的なんは、夕刻の夕焼けと、西の夜空に浮かぶ満月。

だから、以前からその長堀通りに、天文観測の史跡があるのには気が惹かれてました。


さて、それにしても冬至の頃の太陽の弾道は、低い。

明日、太陽は、死ぬ。

そして、

23日に、蘇る。


太陽信仰。


彼は、太陽を手に入れたのだらうか。


ブライアン。