ウィキペディア アテルイについて
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アテルイ(生年不詳 - 延暦21年8月13日(802年9月17日))は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者である。789年(延暦8年)に日高見国胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。
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色んな所で、小沢さんがアテルイの末裔、もしくはアテルイの甦りではないかという考察があるので、度々このブログでも小沢さんが岩手県水沢出身なので、東北蝦夷の勇者、アテルイを重ねみる考察をしてきたが、面白い動画を発見したのでアップします。
以前小沢さんもアテルイを意識した発言をされていたようなので、今一度、桓武天皇の蝦夷征伐の歴史と現在の旧既得権益側の小沢バッシングを重ね見ると、興味深い考察になるのではないだろうか。
井沢元彦の「逆説の日本史」によると、時の天皇、桓武天皇は平安時代初期、京の都から見て艮の鬼門にあたる東北地方で栄える、蝦夷を征伐することで日本を統一しようとした。
その蝦夷の番長がアテルイであった。
一方、天皇から征夷大将軍を任命され、蝦夷征伐の命を受けたのは坂上田村麻呂である。
蝦夷からしたら迷惑な話だったろう。
そもそも朝廷の連中は朝鮮半島からやってきて、西日本でやりたい放題権力闘争をして、挙句に京都から見て鬼門の東北の蝦夷のせいで、都は不安定だとされるなんて、理不尽極まりない。
去年暮れにこのブログでもアップしたが、菅原文太と小沢一郎のラジオ対談でも話になっていたが、お二人とも東北出身なので「白河以北」というキーワード、共通認識があるようだ。
はてなキーワードより転載開始
「白河の関所より北の土地は、一山で百文にしかならない荒れ地ばかり」という侮蔑表現。
戊辰戦争以来、新政府軍を率いる薩長土肥側が東北地方を卑下して用いた。
これにより、奥の細道にも見られる「白河の関を越える」という表現は、単に相対的な位置関係を意味するものではなくなった。
転じて、東北人の反骨精神を表すフレーズとして用いられるようにもなり、地方紙「河北新報」の名前の由来となったり、や、岩手県出身の平民宰相・原敬の雅号「一山」の由来ともなった。
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僕は関西の人間なので、東北の方がこういった認識を持たれてるのは馴染みがありません。
東京に対する反骨精神には共感しますが、むしろ大阪人特有の気質でまだまだ関西は東京に負けてないぞと、根拠のない悪乗りのような自負があります。
しかし、日本の歴史を鑑みれば、自身のルーツを探ると、どうやら自身のルーツが大陸から来てるだろうことから、少々、複雑な気分にも駆られたりもします。
アテルイ、カッコイイね。
インディアンのジェロニモみたいや。
反面、朝廷に対しては、疑問が残るね。
歴史には色んな視点があるけど、自分の国の正しい歴史を、しっかり認識しておきたいです。
この国の権力構造は、1300年間、変わっていないんですね。
ところが、2009年の衆院選で、政権交代が起こり、一瞬それがひっくり返りかけたんですね。
その立役者は、何を隠そう、小沢一郎なんです。
だから、彼の名前はこの国の民衆革命の指導者として、この国の歴史に燦然と刻み込まなければいけないんです。
歴史は争いの勝者によって書き換えられますが、毎日、マスコミが躍起になって小沢一郎をこき下ろしています。
これこそが現在、我々庶民の眼前で行われている歴史の捏造、大本営である。
小沢一郎の平成維新の特筆すべき点は、この革命が無血であったことです。
これは世界の歴史の中でもこれが唯一ではないだろうか。
受験生は、社会のテストの問題の内容に関わらず、「2009年、小沢一郎によって平成無血維新が成し遂げられた」と書きなさい。
それが点数にならなくても、書きなさい。
勇者アテルイの生まれ変わと、小沢一郎を賞賛しすぎても、決して大袈裟ではない。