
¥987
Amazon.co.jp
いや~、久しぶりに素敵な本に出会えました。
感銘を受ける内容が多かったので幾つかに分けて感想を記事にしてみようと思います。
まず、個人的に何故近江に惹かれるのかと申しますと、ワタクシの苗字がばれますが、安土に「沙沙貴神社」という佐々木家のルーツを語る上で重要な神社があります。
去年、其処へ訪れる機会がありました。


沙沙貴神社
転載開始
まず、当神社の起こりは、神代に少彦名神が当地に降臨し、それを祀ったことから端を発すると言われています。少彦名神とは、列島土着とされる国津神の1神で、国津神の総領である大国主神と共に国土経営を行った重要な神です。よって当初は、佐々木氏との関係はなかったのですが、少彦名神(すくなひこなのかみ)の「すくなひこ」から「ささき」という風に言葉が転化したとも伝えられています。したがって「佐々木」の源は少彦名神にちなむのだといいます。
時代が下り、古墳時代に沙沙貴山君(狭狭城山之公)という陵戸(みささぎのへ。大王家の御陵を守護する役目を司った部。古代の職業部の1つ)がこの地に居住し、この神社に自らの部の祖神である大毘古神を祀ったことから、現在、大毘古神が祀られているのだといいます。
また、仁徳天皇が祀られている理由は、仁徳天皇の幼名「大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)」にちなむといいます。古代ヤマト王権において、天皇の死後、その天皇の業績を語り継ぐ部民として「名代(なしろ)」が置かれたのですが、仁徳天皇の功業を語り継ぐ名代は、その幼名に基づいて「雀部(ささきべ)」と称していました。その一派が当地にやってきて、そこからこの神社に仁徳天皇を奉祭するようになったのだとされています。
これが歴史時代以前の沙沙貴神社のかたちで、これをもって全国の佐々木氏の総鎮守として沙沙貴神社があるとみなされているのです。これは有史前の伝承なので、その実態は明らかになっておりませんが、927年に完成した『延喜式神名帳』には沙沙貴神社の存在が記載されているので、この当時すでに、沙沙貴山君や雀部の末裔にあたる集団がこの神社を祀っていたことがわかります。
ただし、現在の沙沙貴神社の祭祀方式が成立した背景には、中世に成立した佐々木源氏(近江源氏)の保護・崇敬によるところが大きいと言えます。有史前の佐々木氏の由来は伝承の世界なので、現在の佐々木氏の直接的系譜といえば、この佐々木源氏に行き着くわけです。
佐々木源氏とは、宇多天皇(51代。867~931)の皇子・敦実親王(あつみのみこ)を始祖とする、宇多源氏の一派です。近江のこの安土周辺に根を張ったため、近江源氏とも言われるようになりました。
近江源氏もとい佐々木源氏は、後に室町時代になると守護大名佐々木氏に発展し、さらに戦国時代にはそこから分派した六角氏が、沙沙貴神社北にそびえる観音寺城を中心に勢力を築き、南近江の覇を築きました。佐々木氏の嫡流である六角氏は、1568年に織田信長の上洛に伴って観音寺城を攻められ落城、表舞台から六角氏、および佐々木源氏の歴史は途絶えることとなりました。
さて、こういったことから、中世の佐々木源氏が沙沙貴神社を「佐々木の氏神」として大変厚く保護したので、沙沙貴神社の祭神に宇多天皇・敦実親王が合祀されることと相成ったわけであります。
色々と複雑な変遷をたどってきましたが、佐々木の担い手を簡単にまとめると、こんな感じでしょうか。
①少彦名神を奉祭する最も原初的なササキ部(ほぼ伝説上)。
②陵戸である沙沙貴山君一族(古墳時代)。
③仁徳天皇を奉祭する名代である雀部(古墳時代)。
④宇多源氏の流れを引く佐々木源氏(近江源氏。平安時代)。
もしかしたら、②と③はほぼ同一の部民かもしれません。元々②の陵戸だった沙沙貴山君が、仁徳天皇を奉祭する雀部の機能も併せ持ったのかもしれませんし、その逆もまた然りです(雀部→沙沙貴山君)。いずれにしろ、沙沙貴神社は遥か古くの時代から現在に至るまで「佐々木」の名を通じて多くの人々に信仰されつづけてきた場所だったということが窺い知れうるのです。
転載終了
ワタクシはスクナヒコナの末裔です。
現代に甦るオオク二ヌシと共に国造りに邁進します。
ま、それはロマンとして。
それと、仁徳天皇の和名がオオササギであるところからも由来があるようです。
仁徳、応神(同一人物との示唆もある)は渡来人、帰化人との説は有名です。
スクナヒコナも海を越えて日本にやって来て、海の向こうに去っていったとの伝承もあります。
いずれにしても、ワタクシの祖先は半島、もしくは大陸からやってきているようです。
まあ、うちは分家の分家の分家の分家辺りなんで庶民なんですがね。
しかし、うちの亡くなった爺さんが戦前、大阪の勝山通り辺りでうどん屋を営んでいたらしいんです。
爺さんは次男坊のようだが、ある程度店の経営の出資をしてくれる人がいたんやろね。
さて、そんな個人的な縁とゆかりが御座いまして、沙沙貴神社を訪れたのですが境内は凛としていて清々しかったです。
その日、安土だけに天下の信長の安土城にも行ったが、唯の山でした。
しかし、その頂上から西の湖を臨む景色はなかなかのものでした。

白洲正子さん曰く
「近江は日本の楽屋裏である」
といいます。
日本の歴史の表舞台にはあまり表われませんが、近江は近畿の水瓶琵琶湖を抱えております。
縄文時代の遺跡も多数発掘されています。
原住民と渡来人の文化が融合して、栄え、文化を残し、近江商人達は新天地へ活動の場を広げた。
天智天皇が大津に都を構えたかったのは、様々な憶測がありますが外的に対する地理的な戦略もあったでしょう。
信長が安土に城を構えたのも様々な憶測がありますが、やはり渡来人、帰化人の財力の影響もあったのでしょう。
また、比叡山は日吉大社からの由来もあるといいます。

そもそも日吉大社の辺りには縄文人の自然信仰の跡も残っています。
白洲正子さんは歴史の行間を女性特有の感性でそれらの点と線を紐解き、近江の文化、信楽焼き、万葉集、松尾芭蕉の俳句、などを織り交ぜながら近江路を堪能され、古代のロマンに思いを馳せます。
読者もいっしょに近江路を散策しながら悠久の歴史に夢想の旅へ誘われる気分になります。
今や、半島や大陸と日本の歴史を同列に研究し、当然日本は単一民族ではないというのは公然の事実となってきております。
白洲正子さんもそれを前提に、そこからポジティブな解釈を広げ、天智天皇や聖武天皇、また額田王や小野小町、芭蕉達の歌に聡明な解釈を加え、読者に日本古来の伝統の美しさ儚さの共有を求めてこられるような感慨にさせられます。
これを機会に万葉集や古今和歌集なんかもちゃんと読んでみたい。
中でも額田王の歌は素敵で、奥が深く、歴史の行間へのロマンが膨らみます。
あかねさす
柴野行き標野行き
野守は見ずや
君が袖振る
額田王は天武天皇と天智天皇と三角関係にあったらしいが、日本には文才で男を虜にする女流作家がたくさんいますね。
日本の女性の文章スキルが高いのは今に始まったことではないんですね。
世の男たちよ、
女達の思わせぶりメールには注意せよ!
そんなこんなで、またこの著書の感想を記事にします。