再建築不可の土地建物の売買 -3ページ目

再建築不可の土地建物の売買

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「うちの父は変った性質なの。昔の人が山師って云うのは、ああいうのかもしれないわ。それでも、私はこんな学校へ入れてくれたりして……。うちの経済から云えば無理なんです」

 そんな打明話もした。

 とき子は、卒業するとすぐ、東京でも屈指の、半ば国立のような或る大銀行に勤めるようになった。採用試験のとき、とき子はいつも通りの素顔でゆき、勤め るようになってからもそれは変らなかった。

とき子のその態度を峯子は無関心に見ていなかった。おくれて勤めるようになった峯子の海外貿易の会社が、その銀 行のごく近所にあったりして、特にこの三年ほどの間に二人のつきあいは、
自然と同窓生のありふれた範囲を超えたのであった。
 峯子の働く会社は気風が派手で、若い婦人事務員は相当化粧にも凝る。勤めて間もない或るとき、峯子が素朴なおどろきをあらわして、


「うちの人たち大したものよ」
と云った。
「地顔とまるきりちがう顔色なんかしてケロリとしているんですもの」

 父親が地味な語学の教授である峯子は、そんな都会風な扮装になれていないのであった。
「私の方はあんなところだから、いくらかちがうわね」
映画についてはどうであるか。たとえば昔からわが国でも座興として行なわれる影人形や、もっと進んでハワイの影絵芝居のようなものも、それが光と影との遊 戯であるというだけでは共通な点がなくはない。

またたとえばわが国古来の絵巻物のようなものも、視覚的影像の連続系列であるという点では似た要素をもって いないとは言われない。

それからまた、眼底網膜の視像の持続性を 利用するという点ではゾートロープやソーマトロープのようなおもちゃと似た点もあるが、しかしこれらのものと現在の映画――無声映画だけ考えても――との 間の差別は単なる進化段階の差だけでなくてかなり本質的な差であると考えられる。少なくもラジオやテレヴィジョンが昔は無かったというのと同じ意味で映画 というものは昔は決して無かった新しいものであるということができよう。なんとなれば現代の精密科学は本質的に昔の自然哲学とちがった要素をもっているか らである。

そういう全く新しい科学的機械的の技術が在来の芸術といつのまにか自由結婚をしてその結果生まれた私生児がすなわち今日の映画芸術である。それ が私生児であるがために始めのうちは、父親の芸術の世界でこれを自分の子供として認知する、しないの問題も起こったのである。

しかし今ではこれを立派な嫡 子として認めない人はおそらくないであろう。


再建築不可の買取り
それにつけても、映画の恋愛に現われる女がはたしてどの程度まで性格的に自主的に感情表現をし、行動をしているであろうか、大分疑問である。

なるほど、現在有名になっている女優一人一人について見れば、容貌にしろ髪の色、声にしろ感情表現の身振りにしろ特長がなくはないのだが、男との相対において現われて来ると、性格的なものをはっきり生かそうというスター・システムの焦慮にもかかわらず、感情の総和ではどうも女一般に還元させられてしまっている。

つまり筋書の根本のところで、女ごころの内容を、型にきめてしまっているところがあるからであろう。細かくこの点に触れて観て行くと、外国でも女優はまだ持ち味を肉体の特長とともに一般的な女的性格の上に投げかけている程度に止っており、しかも、女優自身がいわば最も自然発生的なものの上に立って演じていることについて、自覚も煩悩も持っていないように見える。

最近上演された「四つの恋愛」を観たときも私はそのことを強く感じた。「四つの恋愛」はコンスタン・ベネット、シモーヌ・シモン、ロレッタ・ヤング、ジャネット・ゲイナーという四女優を集めてこれらの女優の特色で興味をひこうとしたものであったろうが、案外に深みも味も、特長さえ大して活かされていなかった。