木曽川渡し場遊歩道(可児市) 前編 | 鬼丸のブログ

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気儘に写真を載せてます。

主に、城跡・神社かな。

訪問日 令和5年11月16日

 

今回訪問したのは、可児市土田にある木曽川渡し場遊歩道。

別名、『かぐや姫の散歩道』という約600mの竹林の歩道。

江戸初期、中山道が初めて木曽川を渡る場所として栄えたが、

役目を終えた後、次第に荒廃し、荒れ放題の竹藪となった。

平成19年より、地元の有志の手によって整備されたもの。

自然散策だけでなく、歴史も感じられる場所。

 

日特スパークテックWKSパーク駐車場から堤防を東(上流)へ。

 

遊歩道の土田進入口付近にある案内板。

 

遊歩道へ。

足元は、砂地の場所が多い。

 

入ってすぐの所にある「夫婦木」。

 

夫婦木(めおとぎ)

 この木は、違う種類の2本の木が根元を一つにして生えて

います。仲むつましく寄り添っているため、俗に夫婦木(め

おとぎ)などと呼びます。人が意図して植えたものでなく、

自然育成のものと思われます。

 向かって左の木が「アベマキ」、右が「シラカシ」

 

 

こちらは、「夜泣き石」。

 

(解説板)

夜泣き石

 文治元年(西暦一一八五年)の冬、平家の

平知盛が壇ノ浦で海に身を投げてから、その

妻が悶々として、昔今渡と土田の境に姫が淵

と云う底の知れぬ深い淵があり、この淵に身

を投じて死んだと伝えられている。しかし現

在は川の瀬が変わり、岩は残っているが淵ら

しきものは見当たらない。

 この現在見られる岩を夜泣き岩と云い、伝

説によると巨岩で淵の付近にあって、月の澄

んだ夜などこの岩の上に幻のような女が白装

束に髪を乱して立ってさめざめと泣きその泣

き声が川面を流れたと伝えられている。

 この幻の女の姿は、平知盛の妻の亡霊であ

ると後の世に伝えられた。以後この岩を夜泣

き岩と云っている。

            可児町郷土史より

 

 

竹林の様子。

しっかりと整備されており、心地良い。

 

「杭場跡と土田川並藩所」。

渇水時ではないので、「杭場跡」を見る事は出来なかった。


 

(解説板)

杭場跡と土田川並番所

 江戸時代(一六〇三~一八六七)、尾張藩は木曽

川を支配・管理するため、寛文五年(一六六五)錦織

奉行所を新設し、その配下として川並番所を設置

しました。

 この川並番所は、木曽川一帯の舟運と材木に関

する監視を行う役所で、通行する筏や舟を管理し、

また洪水などで流失する御用材や商い材を拾い集

めたり、盗木の監視、船荷の改めをしていました。

 土田川並番所は、現在の土田地内カヤバ㈱の北

町駐車場付近に設置されていたようです。

 当時は川岸近くに木の杭を何本も立てて、洪水

などで流れて来た御用材や流木を拾い集めていた

ようです。その杭は川底に穴を掘り固定されてい

ました。現在渇水時にその穴跡を岸より見ること

が出来ます。

 

 

「杭場跡」の少し下流にある木曽川に注ぐ川。

 

その横にある避難路の入口。

 

緩やかに登りながら、何度も左右に折れ曲がる。

 

分り辛いが、この場所が土塁状の高まりとなっており、

「虎口」を形成している様に見える。

 

少し荒れた竹藪を南東へ進む。

 

石垣が現れ、住居跡らしき場所に出る。

 

辿り着いたフェンスの先は・・・

 

テニスコート横の駐車場。

ここの東側にカヤバ㈱北町駐車場がある。

ということは、勝手な考察だが、

この道は、当時使用されていた川並番所から木曽川への道跡?

 

遊歩道に戻って、「化石林」。


 

(解説板)

化石林

 ここにある化石林は、今から約千八百万年

前の森林が立ったままの状態で埋没し、化石

化して出来たものです。今まで大半が水没し

ていて確認されていなかったのが、平成六年

(一九九四年)九月の異常な近年にない渇水

により、河床に化石化された根元部分が多数

(約四〇〇本余)林状に立っているのが見ら

れ、化石林として確認されたものです。

 平素はそのときの水量により違いますが、

水面上に点在して山状になって見られるのは

一本一本の珪化木(木の化石)です。

 なお、この樹木の種類はアオギリ科の仲間

と言われています。大きさは大きいもので直

径一メートルのものもあります。この地域の

昔を想像してみて下さい。

 

 

遊歩道の今渡進入口の様子。

 

今渡側からの場合は、カヤバ㈱の駐車場が借りられる。

流石、世界のカヤバ㈱。

 

続く。