大井戸古戦場(可児市) | 鬼丸のブログ

鬼丸のブログ

気儘に写真を載せてます。

主に、城跡・神社かな。

訪問日 令和5年10月24日

 

今回訪問したのは、可児市土田2691-1にある

「承久の乱 大井戸渡古戦場跡」。

「かに木曽川左岸公園」内に案内板がある。

 

案内板。

 

『大井戸の戦い』(解説文)

 承久3年(1221年)5月、後鳥羽上皇は、源氏の直系が途絶えた

後の混乱に乗じて執権として鎌倉幕府の実権を握った北条義時

を朝敵として討つべしと在京の武士達に命令を発します。

 上皇により「義時追討の院宣」が発せられたことをいち早く知

った鎌倉幕府は、北条氏を中心に兵力を結集し、上皇に味方する

西国の武士を討つべく大軍を送り出します。

 北条氏の命により京都へ向かった幕府の軍勢(鎌倉方)は、

東海道、東山道、北陸道の3つのルートに分かれて、それぞれ

兵を進めました。なかでも東山道を進軍した武田信光・小笠原

長清の軍勢は、同年6月5日に木曽川の渡しであった「大井戸」

の地で、木曽川右岸(美濃加茂市)に布陣した朝廷側の軍勢(京方)

と相対することになります。

 「承久記」によると、鎌倉方の武田・小笠原は総勢五万余騎。

京方の大内惟信はわずか二千騎。数で勝る鎌倉方は京方を一

蹴し、そのまま西へと向かいました。「大井戸」の地を皮切りに始

まった両軍の衝突の結果、京方は敗走を余儀なくされ、鎌倉方は

瞬く間に京都へとのぼり、その地を支配下に置きました。

 「承久の乱」と呼ばれるこの一連の戦いは、その後江戸時代の

終わりまで続く武士による政治体制が確立された重要な戦いと

評されています。中世以降の日本社会の在り方を決定づける歴

史的な事件の舞台となった可児市土田の地は、古くから木曽川流

域の交通や物流の要として機能してきました。

 今はもう当時の様子を窺い知ることはできませんが、滔々と

流れる木曽川の水面にかつての姿を垣間見ることができるかも

しれません。

 

 

現在の木曽川の様子。

所々に白波が立つ場所があり、浅瀬であることが分かる。