五大山明眼寺(大治町) | 鬼丸のブログ

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気儘に写真を載せてます。

主に、城跡・神社かな。

訪問日 令和元年12月23日


今回訪問したのは、

海部郡大治町馬島北割114にある「五大山明眼寺」。

天台宗の寺院で、延暦21年(802)に最澄の弟子である聖円上人が、

「五太山安養寺」として開基したのが始まりという。

南北朝の戦乱等で荒廃するも、清眼僧都が延文2年(1357)に再建、

又、薬師如来の夢のお告げにより眼病治療を行って、

多くの人を助けたという。

寛永9年(1632)に当時の住職円慶が、

後水尾天皇の三女の眼病を治癒した功績により、

明眼院の寺号を授けられ、

明和3年(1766)には桃園天皇の二女の眼病を治癒したことで、

勅願寺の格式が与えられ、尾張藩からも36石の寺領が与えられた。

明治維新により僧侶の医療行為が禁止されたため、

明治8年(1875)に廃業したが、診療所跡の碑が残る。


「寺号標」付近の様子。

「馬島」信号近くにあり、ここから寺院へは150m程北上する。
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寺院正面付近の様子。

寺院は、南面している。

尚、ここには明治24年(1891)の濃尾地震で倒壊するまで、

「旧仁王門」が建っていたが、

現在は、左右に屋根付き格子があり、

その中に「仁王像」が安置されている。
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解説板。

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(解説板)

  町指定有形文化財

    馬島字北割一一四 明眼院

木造 仁王像 二躯

 仁王像は、桧材寄木造で内刳を施し、両目

を見開いて忿怒の相を表す像である。向かって

右側の阿形像は、像高331.2センチメートル

で口を大きく開く。向かって左側の吽形像は、

像高337.8センチメートルで口を閉じ、阿形

と左右逆の姿勢をとる。造立年代は平安から

鎌倉期の作品と推測される。

 阿形の左腰に刻まれた渦巻きが特徴で、

造形に優れ、力強く荘厳な姿の像である。

 平成二十三年十月五日大治町有形文化財に

指定された。

  平成二十四年三月吉日

          大治町教育委員会



「手水舎」。

「手水鉢」は、宝永年間に奉納されたもの。

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「地蔵堂」。

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「本堂」。

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「本堂」前にある「眼病人」と刻まれた「手水鉢」。

これ以外にも境内には「眼病人」と刻まれた「石灯籠」がある。

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「本堂」前の阿弥陀仏像。

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「本堂」左手前にある大日如来が収められた「大日堂」。

「旧多宝塔」と言われ、室町時代の創建と伝わる。

かつては二重塔であったとされるが、現在は初塔だけが残っている。

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大日如来坐像の写真。

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解説板。

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(解説板)

  町指定有形文化財

    馬島字北割一一四 明眼院

木造 大日如来坐像 一躯

 大日如来坐像は、像高110センチメートル

桧材寄木造で玉眼の漆箔像であり、多宝塔に

安置されている。

 平安時代の仏像を意識して、鎌倉時代に造

られたと推測される。智拳印を結び、全体的

におだやかで、平安仏のような落ち着きが感

じられる美しい姿の仏である。

 町内の古作として重要な存在であり、後世

に伝えるべき作品といえる。

 平成二十四年二月七日大治町有形文化財に指

定された。

  平成二十四年三月吉日

         大治町教育委員会



「地蔵堂」。

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「本堂」北側は庭園になっており、

眼疾のため当寺を訪れた小堀遠州が修築を施したとされる。

残念ながら、現在は少々荒れ気味。

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「大日堂」と庭園の間にある小山には、祠が祀られている。

詳細は不明。

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尚、この祠は、フェンスを挟んで、「馬島社」のすぐ東側に位置する。

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小山の東側には、竿に特色のある「石灯籠」があり、

「キリシタン燈籠」とされる。
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最後に、石碑「馬島明眼院診療所跡」。

寺院東側の民家前にある。
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石碑の北側には、立派な門を持つ屋敷がある。
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