天王川公園(津島市) 前編 | 鬼丸のブログ

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気儘に写真を載せてます。

主に、城跡・神社かな。

訪問日 令和元年 8月26日


今回訪問したのは、津島市宮川町1にある「天王川公園」。
大正9年(1920)に開設された公園で、

中央の丸池はかつて「津島神社」の東を流れていた天王川の名残。

平成19年(2007)には、日本の歴史公園100選にも選ばれている。


鎌倉期以降、この地は桑名と津島を結ぶ船の発着所として繁栄し、

宿泊施設等も設けられて、大いに賑わった。

織田信長は、この湊(津島湊)が尾張の支配に重要と考え、

いち早く津島の支配を行ったという。

しかし、江戸期以降は、慶長14年(1609)の御囲堤の築堤により、

天王川の土砂の堆積が進んだため、湊としての機能が低下。

桑名と結ぶ船は佐屋が中心となり、

公式には寛文6年(1666)に湊は廃止されるが、

「津島神社」を参詣をする人々のための中小の船が行き来したという。

その後、天王川が埋め立てられて、現在の公園ができあがった。


公園の案内図と公園の様子。

今回は、第一駐車場から反時計回りに散策する。
天王川公園1 天王川公園2


公園の石碑。

天王川公園3 天王川公園4


公園の南側にある藤棚。

天王川公園7 天王川公園6 天王川公園8


公園東側にある「天王川東堤」。

天王川公園11


標柱。

天王川公園9 天王川公園10


(解説文)

 木曽川から分かれた佐屋川の支流である天王川は古くから船によ

る交通が盛んであり、その東西の堤防に天王川の川幅でもあり、松並木

がたちならんでいた。なお東側中ほどの入江になっているところは

昔から川祭りの山車の準備する場所であった。川の方を向いて

右手の堤防は猿尾といい川の流れをゆるやかにするためにつくられた。



「車河戸」。

尾張津島天王祭の屋台島があり、ここで準備が行われる。

尚、この入り江になっている部分は、「津島湊跡」とされる。

天王川公園12 天王川公園13


津島湊跡・天王川公園の解説板。

天王川公園14


(解説文)

天明年間(1781~89年)まで津島には木曽川

の支流の天王川が注いでいて、この辺りに津島湊

という川湊があり、津島天王社(現津島神社)の

門前町として、また交通の要衝としてにぎわいま

した。文禄2年(1593)に今の天王川公園の東

堤に設けられた船番所は船会所に姿を変えつつ

江戸時代末期まで続きました。天王川公園の車

河戸はかつての津島湊の名残を今に伝えてい

ます。



「濃尾大地震記念碑」。

天王川公園17 天王川公園15


解説板。

天王川公園16


 津島市指定祖先の遺産

  濃尾大地震記念碑(解説板)

 明治二四年一〇月二八日、岐阜県本巣郡

根尾村を震源とする断層大地震は、稀に

見る強大なもので、この地方にも未曽有の

被害をもたらした。

 この碑は、明治二五年一〇月この惨害を

記録建立したもので、碑表には、海東海西

二郡(津島を含む)における罹災の実情を、

碑裏には、建碑資金の寄附者名が刻してある。

                    津島市



公園の北側にある「山櫻一千本」と「楓五百本」。

天王川公園20 天王川公園21


解説板。

天王川公園22


 天王川公園の「桜」と「楓」(解説板)

 江戸末期、津島牛頭天王社の神主であった氷室豊長が

天王川堤を桜の名所にしようと、吉野山の桜を植樹しま

した。この意志を継いで、明治十一年には加藤氏らが山桜

を千本植樹しました。この石碑「山櫻一千本」は、そのこと

を記念して建てられました。明治四十年には滋賀県の

塚本氏が百五十本を、さらに大正期には町の有志が植樹

したことによって、「春」の景色が一層美しくなりました。

 明治四十二年に津島の富永氏が楓五百本を植え、

「秋」の景色に色をそえました。

 天王川公園は私財を投じた先人の尽力により、市民の

憩いの場ともなっています。

                        津 島 市



旧天王橋の解説板。

天王川公園26 天王川公園27


旧天王橋(解説板)

昔はここに天王川(佐屋川の支流)が流れ、現在

の天王川公園の北端に天王橋が架かっていたと

推定されます。橋の長さは寛文年間には六十八間、

幅三間(長さ約120m、幅5.4m)で、通行料を

取り橋の修繕費に充てたと言います。織田信長

がこの橋から尾張津島天王祭を見物したとの記

録が『大祭筏場車記録』に残っています。川の上

流をせき止める工事が行われ、天明5年(1785)

に現在のような形になりました。その後、御旅所

ができました。



続く。