長谷川秀一邸跡(一宮市) | 鬼丸のブログ

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気儘に写真を載せてます。

主に、城跡・神社かな。

訪問日 平成30年 8月27日


今回訪問したのは、一宮市北方町北方にある「長谷川秀一邸跡」。

現在、跡地周辺は宅地となり、遺構等は確認できない。

 

先ずは、一宮市立北方中学校前にある石碑。
中学校東側の校門前に石碑が建つ。

長谷川秀一邸跡3 長谷川秀一邸跡7


石碑「東郷侍従 長谷川秀一公旧居跡」。

長谷川秀一邸跡4


横にある石碑。

何故ここに石碑があるのかを説明している。

「この碑は以前秀一公旧居跡と伝えられる

北方町下渡公民館付近に建てられていた

が都合により現在地に移転した」

長谷川秀一邸跡1


石碑の背面。

長谷川秀一邸跡6


(石碑文)

 長谷川秀一公は北方下渡の人、幼名竹、初め信長公に

呼称として仕える。天正十二年長久手の戦いの戦功で

秀吉より越前足羽郡東郷十五万石を賜り

翌年従五位下侍従に叙せられ、東郷侍従の称がある。

文禄の役に兵五千を率いて渡鮮、彼の地で陣没との説は

最近の調査により二千の兵と共に帰国米原の多和田で

死没と改められる。

東郷村誌に、加賀江沼郡の山中で温泉を発見し

今日の山中温泉となると伝えられる。尾張名所図会に

この人器量抜群にしてへつらいなく

直言を発して高貴なる人をもはばかることなく

世に許されて人にあがめらるとある。

ここに有志相集い秀一公の遺徳を顕彰する。

 平成十年三月吉日  建之 北翔会



一方、こちらは一宮市北方町北方東渡り58-2にある下渡り公民館。

この辺りが邸跡と言われる。

長谷川秀一邸跡8 長谷川秀一邸跡11


解説板。

長谷川秀一邸跡9 長谷川秀一邸跡10


  東郷侍従旧居跡(解説板)

 東郷侍従は北方の人。幼名を長谷川竹

といい、信長公の小姓をつとめ成長して

藤五郎秀郷と名乗る。信長公が本能寺で

横死の後、長久手の戦いで秀吉公に仕え

戦功により、天正十二年(一五八四年)

越前足羽郡東郷十万石を領し、牧山城を

築く。同十三年根来の僧徒を平らげ、七

月従五位下に叙せられ、東郷侍従に任ぜ

られ、秀一と改める。

 この人器量抜群にして、へつらうこと

なく、進言を発して高貴な人にもはばか

らず人にあがめられる。

 文禄元年(一五九二年)豊臣秀吉の命

により国外出兵、五千の軍勢を率いて戦

い、文禄三年三月彼の地に卒死、跡継ぎ

が無く家は絶えた。



おまけ。

公民館北側にある「地蔵堂」。
長谷川秀一邸跡12 長谷川秀一邸跡13