訪問日 平成30年 7月 2日
今回訪問したのは、羽島市竹鼻町駒塚にある「石河邸跡」。
「傳法寺」の南側に位置する。
現在は、民家となっている。
『日本城郭全集7』には、次の様にある。
「館跡は村の内にあって、尾張徳川氏に仕えた石川氏の居館であった。
石川氏は清和源氏多田満仲(九一二~九七)のニ男大和守頼親の子孫で、頼親から数えて十代目、杢兵衛光信(加々島氏)は信長に仕えて加々島村に住まった。その子杢兵衛光政は秀吉のもとでやはり同村に住んだ。光政の弟が石川伊賀守光重で、同じく秀吉に仕え、子紀伊守光元の代になると功あって播州竜野城主となった。光政が慶長六年(一六〇一)に没したのち、光忠のとき領知は一万余石となっていた。光忠は美濃国山県郡上野郷を在所とした(『新撰美濃誌』)。
のち、尾張徳川家に仕え、石河館の主となったのはこの竜野城主石川氏の子孫である。」
石河(いしこ)氏は、関が原合戦の時、西軍に付いたため、
秀吉から拝領した摂津国龍野を家康に没収され、
蟄居幽門を命ぜられた。
慶長15年にゆるされ、美濃・摂津の内の一万石を拝領し、
後に尾張藩の五家老となる。
自領内に西の竹鼻に向かう『駒塚街道』や
尾張に向かう『駒塚の渡船場』等を創設し、
船流通を良くするなど、竹鼻の町づくりに貢献したとされる。
石碑「史跡 尾張藩家老 石河邸の跡」。
いつものことながら、草木に阻まれ、上手く撮れない。(汗)
石碑側面。
「駒塚石河氏は 慶長十七年に尾張藩付属となり美濃国 摂津国に
一万石を領していた 寛文九年に駒塚村を在所とすることを命ぜら
石碑の奥に門が見える。
いつの時代のものかは不明だが、なかなかの門だ。
石碑前を更に東へ進むと、
「傳法寺」の「鐘楼」付近の農地にもう一つ史跡の標柱がある。
跡地を南西から見た様子。
南側には水路がある。
農業用の水路だと思うが、位置的に「堀跡」かと思ってしまう。(笑)
跡地の西端辺りに石碑が建っている。
石碑「石河中軒翁之碑」。
庸軒流家元第八代石河中軒宗匠の顕彰碑とされる。
石河中軒は、明治期に活躍した茶道家として知られる。
跡地を南東から見た様子。
尚、岐阜市にあった「鏡島城」は、
一族の石河駿河守光清が築城したとされる。