加佐美神社(各務原市) 弐 「境内」 | 鬼丸のブログ

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気儘に写真を載せてます。

主に、城跡・神社かな。

続き。

「鳥居」をくぐり、50m以上ある長い「参道」を進む。

両側には「石灯籠」が並ぶ。
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「参道」から境内に入り、直ぐ右側に「神馬」がある。

加佐美神社9


その右側にある「雷の落ちた井戸」。

後に解説板があるが、長いのでカット。(汗)

加佐美神社10

 

「手水舎」。

加佐美神社11


横長の「拝殿」。

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戌歳(戊戌歳)ということで、戌の人形と解説がある。
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「幣殿」。

「幣殿」「本殿」及び境内社は、「拝殿」より1m強高い位置に鎮座する。
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「本殿」。

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「本殿」「拝殿」「幣殿」は、国の登録有形文化財に指定されている。

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解説板。

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国の登録有形文化財 平成二十年五月七日登録(解説板)

本殿

 三間社流造、桧皮葺屋根、正面に千鳥破風を付け、

 規模は大きく、桁行三間、梁間二間の身舎に一間の

 向拝を付け、身舎の周囲に縁と高欄をめぐらす。

 向拝は、身舎との間を海老虹梁でつなぎ、彫刻絵

 模様は木鼻は獏の彫り物、蟇股には松、牡丹、鳩の

 彫り物をつけ、貞享四年(一六八七)に造営された。

 見応えのある構造である。

拝殿

 入母屋造、瓦葺屋根、四方吹き放しの平舞台形式

 の建物で、桁行五間、梁間二間の規模をもつ。

 簡単な造りではあるが、延享三年(一七四六)に

 造営され、当初は茅葺の割拝殿形式だったものを

 天保二年(一八三一)に現在の舞殿形式の姿へと

 整えられた。

幣殿

 明治四三年建造の切妻造り、瓦葺屋根の建物で、

 桁行六間、梁間三間の規模をもつ。正面及び背面

 の壁全体に格子戸を立て込む開放的な造りで本殿

 と接続する中央部は、屋根を一段高く上げ、蟇股

 や格天井を組んだ格式の高いものである。

                   加佐美神社



「幣殿」前辺りにある「石灯籠」。

胴には、「元禄拾五歳」と「八幡宮」の文字がみられる。

当社が、江戸時代には「八幡宮」と呼ばれていた名残である。

尚、背後の加佐美山は、八幡山と呼ばれていたとか。

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「幣殿」から右側へ進むと境内社が並んで鎮座している。


「御鍬神社」。

「本殿」の隣、「玉垣」内に鎮座する。

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その隣の左「神明神社」、右「正一位 加佐美秋葉神社」。

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「阿弥陀堂」。
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「正一位加佐美 稲荷神社」。

「伏見稲荷大社」より勧請されたものらしい。
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一番東側にある猿田彦大神の「庚申塔」と解説板。  

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続いて、他の境内施設をご紹介。


境内の東端にある石と解説板。

木が邪魔で、上手く撮れない。

木は、ホント考えて植えて欲しい。

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 加佐美神社「二の鳥居」の台石(解説板)

この石は、加佐美神社二の鳥居の台石です。

むかし加佐美神社には一の鳥居から三の鳥居

があり、その鳥居を稚児鳥居と言われ、江戸時

代の明和年間(二百十六年前)まで現在の古市場町火

の見やぐらのある所(俗称「六ツ石」という)に二の稚児

鳥居がありその鳥居の台石が六ツ残された石

の一つと言われております。

この鳥居は加佐美神社参道にあり、むかしは朱

色をした稚児鳥居であったが大正六年に石造の

神明鳥居が造営された。

二の鳥居は、いまの古市場町(俗称「六ツ石」)にあった

三の鳥居は現在の寺島町神明神社にあったが、いま

も神社境内には、台石と思われる石が六つあります。

稚児鳥居は現在でも坂井と興亜町の八幡神社に

建立されております。なお加佐美神社には往古の

むかし一の宮から三の宮まであり、一の宮は古市場村字

乗友に一の宮神明神社が鎮座し宝永三年(二百七十五年前)いま

の加佐美神社境内東に遷座された。二の宮は伊飛鳥

村字寺島に二の宮八坂神社に鎮座し、寛文十二年

八月十二日(三百六年前)にいまの伊吹町(内山)に遷座された

三の宮は、和合村字広畑に三の宮熊野神社に鎮座さ

れ、いまの野口町にある神明神社に合祀されています。



蔵。

左が「神輿蔵」で、右が「祭礼器具庫」。
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「拝殿」左側(西側)にある「鬼瓦」と解説板。
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            鬼瓦の由緒(解説板)

拝殿は、現存する棟札によると、延享三年(今から二百四十四年前)

に、再建されたものと思われますが、その後、幾度か修理が行なわれ

文政二年(今から百七十一年前)七月、それまで茅葺であった屋根を、

瓦葺に葺直した時に取り付けられた鬼瓦です。

さらに明治三十四年(今から九十年前)九月にも、拝殿の修理を

行なった記録がありますが、昭和六十二年に、屋根の葺き替えを

行なった際、屋根瓦を新調したために取り外した鬼瓦を、ここに

保存したものです。

又、この鬼瓦の上部には、作者の氏名が「文政二年卯九月岩田村

丹羽久七作」と刻まれています。

                            平成二年三月吉日記



「社務所」の近くにある古い「手水鉢」。

「貞享四年」の文字がみられる。
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最後に、境内西端へ。

駐車場にある「和親舎の跡」。

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          由       緒(石碑文)

 この土地は、その昔式内加佐美神社が「八幡宮」と呼ばれていた

時の神宮寺ともいうべき「禅宗」根本寺が建立されていた処である。

 その後、明治の御代に入り、神佛分離令によって明治四年廃寺と

なる。同六年一月十五日(一八七三)同寺を仮校舎として「和親舎

(かしんしゃ)」を創設する。同八年九月七日加佐美神社境内の施

設舞台に移転し「和親学校」と改称される。近代学校教育発祥の地

である。

 その後、この土地は古市場村の管理地となり、昭和二十八年頃に

小町酒造株式会社金武吉兵衛氏の所有となる。

 この度、昭和六十三年六月岐阜県が施工する境川改修事業にとも

ない川沿いの境内地約九〇〇坪を売却、その代金の一部をもってこ

の地約三四〇坪を取得し、駐車場として造成したものである。

 尚、根本寺本堂は西隣りに金武洋氏住宅として現存。和親学校と

なった舞台は、伊吹町二丁目 清水好隆氏住宅として現存。

   昭和六十三年十月吉日建之 式内金幣社 加佐美神社氏子中



「東山道」の解説板。

神社までの真っ直ぐな道は、「参道」ではなく、「東山道」だったらしい。

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           東  山  道(解説板)

平安時代は五十六代清和天皇貞観六年(八六四年)御創建の蘇原総社

式内加佐美神社の社前を西から南に走る道は、昔の幹線国道で

ある東山道であると思われる。大化改新(六四五年)で中央集権

確立のため国衙(国府)を結ぶ駅馬の基本構想が詔され、

養老七年(七二三年)頃まで長い年月をかけて完成したもの
です。道は滋賀県(近江国)から不破関を経て美濃国に入り

県下の駅は不破駅(青墓)大野駅(大野町南部)方県駅(長良)

古津を経て芥見村、岩田村に入り(式内伊波乃西神社、日子

坐王墓)あり。蘇原伊吹村の境川の市儀橋を渡り古市場村

に御鎮座の式内加佐美神社(此より北東五〇〇米の所、式内正三位

飛鳥田神社(大化五年の創建)より南に下り野口村、東島村(和合四ヶ

村)の南を通り各務駅(鵜沼)にいたる可児駅(御嵩)土岐駅(釜戸)

大井駅(恵那)坂本駅(中津川駅)各数頭~十頭の駅馬が用意され

駅鈴を持つ官人の駅伝や租米の輸送一般人の交通で賑いました。駅の間隔は

昔の三十里(約十六km)道幅九尺(二米七〇cm)道は飯田に出て松本~上田~碓

氷峠~栃木~白河関~多賀城(七二四年)設置さらに秋田城(七六一年)
間まで延びていました。(蝦夷)北海道に備えたものである。尚、近世以後

整備された中山道に押されてさびれたが古代中世には幅九尺の狭い

国道であっても街道脇には神社、又寺の堂宇が立ち並び東国と

奈良・京都を往来する人々も多かったと思われる。当市には五社の

延喜式内社が祀られています。東山道とは大和朝廷が開いた東海

道と並ぶ七道の一つです。当社に室町時代應永二十二年(一四一五)の
放生會の記録があり



この後、東山道を歩く。