蛇池宝篋印塔(平田町) | 鬼丸のブログ

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気儘に写真を載せてます。

主に、城跡・神社かな。

訪問日 平成29年 4月16日


今回訪問したのは、平田町蛇池144-1にある「蛇池宝篋印塔」。

岐阜県の重要文化財となっており、別名「源頼光塚」とも呼ばれ、

長い間地元民から信仰されてきた。

最近では、パワースポットにもなっているらしい。

 

岐阜県のHPには、次の様にある。

『いま宝篋印塔のある蛇池地区は、明治5年(1872)以前は脇田村と称した。一宮市千秋町竜光寺所蔵の春日版大般若経七巻の裏面に「美濃国脇田郷増福寺」という魚形の黒印がある。この増福寺が、江戸時代以前脇田部落の南方の字前並に存在していたと伝えられている。この宝篋印塔はこの増幅寺の墓地にあったが、慶長8年(1603)の横江切れの大洪水で寺が廃絶したので、現在の宝延寺の観音堂境内に移したものといわれている。
現在は、蛇池142番地の西南隅に、東西6.70m、南北4.70mの石の柵をめぐらし、東に入り口がある。その柵内西奥の中央に大形の宝篋印塔1基があり、その前と左右に小形宝篋印塔3基と五輪塔70余基がある。
この大形宝篋印塔は、高さ1.91mの花崗岩製で、縦横1.95×1.91m、高さ0.15mの敷石上に立っている。塔の基礎(台座)は高さ0.44mで、四面に格狭間を刻し、その両縁に銘文がある。
この塔は、古来頼光塚といわれてきた。源頼光(948-1021)は、平安中期の武将として余りにも有名である。平安時代の宝篋印塔は全国的にも一つも存在せず、鎌倉時代以後のものとされている。ここ蛇池のものは、その形式から考えて、銘のごとく鎌倉末期の正安2年(1300)の造立と考えるべきである。頼光は国々の守を歴任し、たまたま長和年間(1012-16)美濃守であったから、頼光塚とされたのかも知れない。おそらくこの地方の豪族の墳墓か供養塔であろう。ともかくこれは本県に遺存する宝篋印塔では、最も古いものである。』



県道1号線沿いに建つ案内板。

この案内板に従って進むと、目的地に到着する。

但し、集落内の為、道幅が狭いので、注意が必要。
蛇池宝篋印塔1 蛇池宝篋印塔2


途中の案内板。

蛇池宝篋印塔3


自分は、平田町蛇池1915にある蛇池集会場に、

相棒を停めさせてもらい、そこから徒歩で向う。


目的地は、佐久間医院・じゃいけ薬局の南側にある「護国山寶延寺」。

西美濃三十三霊場二十八番札所となっている。


寺院西側の入口。

先程の案内板に従って進むと、ここに出る。

両側に石碑が建ち、右「護国山寶延寺、左「源頼光之墓」とある。」

蛇池宝篋印塔4


石碑「西美濃第弐拾八番霊場」。

蛇池宝篋印塔8


道沿いにある石仏等。

蛇池宝篋印塔9 蛇池宝篋印塔10


寺院全体の様子を東側から。

道の両側に、施設が点在する。

蛇池宝篋印塔39


「観音堂」付近。

蛇池宝篋印塔11


「手水鉢」。

蛇池宝篋印塔13


石碑「南無十一面千手観世音菩薩」。

蛇池宝篋印塔14


「観音堂」横に立つ石碑「弘法大師」。

蛇池宝篋印塔15


「観音堂」。

蛇池宝篋印塔16 蛇池宝篋印塔12


木々の奥に、祠を発見。

蛇池宝篋印塔32

 

「得道泉龍王」。

蛇池宝篋印塔33 蛇池宝篋印塔35


「観音堂」の南東側にある目的地。

蛇池宝篋印塔17 蛇池宝篋印塔18


史跡の標柱が2本。

蛇池宝篋印塔19


解説板。

蛇池宝篋印塔20 蛇池宝篋印塔31


岐阜県重要文化財 昭和五十二年十二月十八日指定

海津市指定文化財 昭和三十四年 五月 一日指定

  蛇池宝篋印塔(解説板)

 宝篋印塔は中国呉越国王の八万四千「金塗塔」を原型とし

供養塔の一種形式として造られた。鎌倉時代に入って、石材

加工技術の進歩により、小塔から大型化した石製品となり、

五輪石塔、その他の形式の石塔と共に全国的に流行した。

この蛇池宝篋印塔は花崗岩製で総高百九十三cm、切石の台石

上に置かれた完存品である。 銘文は磨滅の為読み難いが

「正安二(一三〇〇)暦四月※日一結衆十七人」とあり鎌倉時代

のものである。

この塔は本県に遺存する宝篋印塔の内でも大形で且つ代表的

なものであり西濃における最古の完存在銘石造美術品である

以前は他の五輪塔と共に元脇田部落(蛇池)の南方字前並に

存したが、慶長八年(一六〇三)の横江切れの時、現在の位置に

移されたと伝えられる。古来この宝篋印塔を頼光塚と称し

柵内へは履物を脱いで入り、またこの塔の苔はおこり病及び

安産に効き、雷除けのお護りとなると伝えられている。

源頼光は美濃の国司として美濃にはゆかりがあるが、何故に

この地の宝篋印塔を「頼光塚」と称するかは詳かではない。

         海津市教育委員会



正面から見た全体の様子。

蛇池宝篋印塔37

 

柵の中の様子。

噂の苔が生えている。

何とも言えない雰囲気。

蛇池宝篋印塔38 蛇池宝篋印塔30


「宝篋印塔」。

想像より大きい。

蛇池宝篋印塔28



この宝篋印塔のある辺りは、その昔「脇田」と呼ばれており、

『日本城郭全集7』によると、「脇田郷地頭館」があったという。

これは、平地に構えられた居館で、

暦応4年(1341)に中原掃部頭親秀の創築と推定される。

慶長8年(1603)に横江切れと呼ばれる大洪水があったこともあり、

現在館跡は、宅地や田圃と変わり、遺構は何もない。
因みに、宝延寺の小字は「蛇池屋敷中」という。

実に怪しい。(笑)