訪問日 平成28年 9月11日
今回参拝したのは、
岐阜市茜部寺屋敷3-135に鎮座する「茜部神社」。
岐阜バスの「寺屋敷」バス停の直ぐ西側。
「茜部神社」という社名だが、その実は「八幡神社」である。
神社正面付近。
社号標「式内 茜部神社」が建つ。
「鳥居」付近。
「鳥居」の右側には「岐阜市指定保存樹」があり、
左側には元気な犬と眠そうな猫がいた。(笑)
この神社の「参道」は長く、100m以上ある。
そのため、途中で2度車道が横切っている。
1つ目の車道を越え、更に「参道」を進むと、
石製の「神橋」が現れる。
「神橋」を渡ると直ぐ左側に、「弘法堂」がある。
何故ここにあるかの理由やその由来は不明。
その横には、「祠」が2つ並んで鎮座している。
左が「秋葉神社」で、右が「愛宕神社」。
火伏の為らしい。
2度目の車道を渡ると、神社主要部に入る。
傍らには、社号標「郷社 式内茜部神社」がある。
いざ、境内主要部分へ。
「手水舎」。
「拝殿」。
瓦には、「八幡神社」を表わす為か、「丸八」が入っている。
「拝殿」と「本殿」の間にある「狛犬」。
そして金属製の燈籠。
「本殿」。
参拝が終了したので、境内を探索。
「手水舎」と「拝殿」の間にある「神馬」。
「拝殿」西手前にある「宝物殿」。
「宝物殿」前に「由緒記」があるが、所々読み辛くなっている。
茜部神社由緒記(解説板)
創設 八百三十年頃(天長年間)
祭神 応仁天皇(誉田別尊ほむたわけのみこと)
神功皇后(息長帶比売命おきながたらしひめのみこと)
武内宿弥(もとは比売大神ひめおおかみ)
祭礼 四月五日、十月十五日
東大寺荘園茜部荘(初めは厚見荘)は、七百十年頃
できる。その守護神として八百三十年頃勅令により宇
佐八幡宮を勧請する。八百三十二年頃、空海が神宮寺
として、成就院(本尊阿弥陀如来)を置く。
全国、神社約十万社中、三万五千社は八幡神社であり、
茜部神社は分社として十番目に古く、有名な手向山、
石清水、鶴岡より古い。祭神は宗社宇佐八幡宮を初め
応仁天皇、神功皇后(母)、比売大神が大部分で、武
内宿弥(臣)は希である。
八幡神社の由来は複雑で、五世紀頃に比売大神(海洋
神、農耕神、鍛冶神)が祀られ、六世紀に応仁天皇(
武勇、安全神、諸願成就神)、九世紀に神功皇后が合
祀された。耶馬台国の卑弥呼は天照大神、壹与は比売
大神との説がある。
道三が信長と会見した帰りにここで休み、道三が亡く
なった時の戦で兵火に罹っている。本社の御神体(本
像)は火災にて損傷しているが、一体はやや小さく、
明らかに比売大神である。
明治維新の神仏分離で成就院の宝物は四散し、祭神比
売大神は武内宿弥に変えられた。
歴代加納城主の守護神であったし、国守土岐政房の墓
がこの裏にある。尾張藩主、稲葉城主、歴代加納城主
らの奉納品が多く、昔は十月十五日の祭礼には加納城
から三十余人の騎馬行列で参拝に来て流鏑馬、走馬式
があった。その後戦前は花火、神楽芝居に多数の露店
が出て賑わった。昭和二十五年、岐阜市に合併し、祭
礼も四月五日となる。式内社、郷社であった。
平成三年四月吉日 記
「宝物殿」付近から「拝殿」等の西奥へ進むことができる。
薄墨桜とその解説板。
何故かその前にある石碑「日露戦役記念樹」。
解説板には、薄墨桜は平成2年に寄贈されたとあるので、
別の木のことだろう。
この奥には、「玉垣」に囲まれた境内社が鎮座する。
左側は「御鍬神社」とあるが、右側は標識が失われており、
社名は確認できなかった。
そして、お約束の「忠魂碑」。
最後に、神社周辺を探索。
神社東側の水路。
直ぐに「堀跡」と思ってしまうのは、悪い癖だ。(笑)
神社北側の入口。
参拝する前は、ただの地域の氏神だとばかり思っていた。
実は、想像以上に、由緒正しい神社だったことを知り、驚いた。
やはり、神社は奥が深い。(笑)










































