竹中氏陣屋跡(垂井町) | 鬼丸のブログ

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気儘に写真を載せてます。

主に、城跡・神社かな。

訪問日 平成28年 2月21日


今回訪問したのは、不破郡垂井町岩手にある「竹中氏陣屋跡」。

現在、跡地は岩手小学校や岩手幼稚園、役場や宅地となり、

「堀」「土塁」等の大半は北側の一部を除いて殆ど破壊されているが、

正面の「櫓門」とその両側の「石垣」や「堀」等は残っている。


県道53号線の「長畑」信号を曲がり、県道257号線を北上。

町立岩手小学校東側にある。


観光用駐車場が陣屋跡の北東側にある。

ここは、元々岩手保育園があった場所なのか、保育園の表札がある。

因みに、現在保育園は岩手小学校の南側にある。

竹中陣屋跡66


駐車場に建つ解説板。

縄張図もある。
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    竹中氏陣屋跡及び櫓門(解説板)

       (岐阜県史跡 昭和三十一年三月二十八日指定)

 竹中半兵衛重治公没後嫡男の重門が菩提山城を廃して構えた陣屋

(『竹中家譜』「菩提山之城を下り、岩手作館居之」)の正門である。

東側が正面で、大手の間口六間 奥行き三間木造の白壁塗りの櫓門

となっている。

 門の西側に千六百三十六坪にわたる陣屋が形成されていた。(東

辺四十間五尺、北辺三十七間半、西辺三十六間一尺、南辺四十二間

二尺) 菁莪記念館の復元模型をご覧下さい

 当櫓門は明治新政府による学制発布により明治十四年に現在の岩

手小学校の前身である『菁莪義校』の正門として位置づけられてき

た。(「菁莪」とは中国最古の『詩経』より「有能な人材を育成す

るの意」)

 明治新政府の「幕府建造物破壊令」に対し高橋弥八郎氏等が「櫓

門は菁莪学校の正門である」と主張し地元文化財としての存続に尽

力され現在に至る。城(陣屋)の門が学校の門になっている学校は

全国でも極めて稀で貴重な史跡となっている。



反対側は「菩提山城跡」の解説。

竹中陣屋跡43


菩提山城跡(解説板)

 竹中半兵衛公の居城として知られる菩提山城は、竹中半兵衛の父である竹中重元が岩手を責める以前より、それまでの為政者岩手弾正頼重が応永二十年(一四一三年)五月十三日付当時の室町幕府の将軍足利義持より所領安堵状を受けたことを記した文書により、それ以前からこの地に作られていたと考えられる。

 岐阜県史によると天文十四年(一五四五年)竹中重元が岩手を奪取し、翌十五年に菩提山上に砦を築いたという記録があり、それまでの砦を改修したと思われる。菩提山城は、中世末期に築城された山城であったが、山城から平城に移り変わる山城築城期の末期に作られたものである。

 このため、山城としては規模も大きく山城特有の空濠、堀切、竪堀、大手道等の施設がみられるとともに、曲輪の組み立てが、中枢曲輪・防御の曲輪・補給の曲輪、それぞれの曲輪固有の機能を連結させて、城を一つの要塞とした組み立てがうかがわれる。他の城跡と異なり、石塁の全く見られない、それでいて敵からの攻撃に対しては堅固にして綿密に計算された巧妙な作りとなっていた。

 なお、この山城は一六〇七年半兵衛の子重門が櫓門の陣屋に城を移した後は使われなくなった。半兵衛自身がこの城を居城としたのは、わずか七年ほどとのことであったとされている。その後四百年間手つかずの状態であったことにより、保存状態は良好である。

概 要

当山城は、本曲輪・二の曲輪・三の曲輪、並びに台所曲輪が一組になって城の中枢部を構成し、その他に多数の小削平地を有し、二つの大堀切、七条の竪堀、及び空濠とからなっている。塁はすべて土塁であり、石塁の見られないのが特徴である。



駐車場の道を挟んで西側。

この日は、ロープが張られ、

今後発掘調査を匂わす掲示がされていた。

竹中陣屋跡46 竹中陣屋跡48


ここは、陣屋正面の北側にあたる場所で、

現在は埋められているが「堀跡」と思われる。

一部、「石垣」が崩れているのが残念だ。

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竹中陣屋跡51


「堀跡」のすぐ北側は、個人宅(子孫との話も)の様だが、

ここも陣屋跡の雰囲気がある。
竹中陣屋跡47 竹中陣屋跡50

「堀跡」すぐ南にある「櫓門」を南東側から。

この「櫓門」は、重臣杉山内蔵助の門を移築したものといわれる。

すぐ隣には「竹中半兵衛重治公」の座像がある。

この「櫓門」の写真の大半は、この角度から。

恐らく、この角度が「石垣」も含め、

「櫓門」が一番恰好良く撮れるからなのだが、

もう一つの理由は、真正面からは撮り辛いという事もあると思う。
竹中陣屋跡12


銅像を正面から。
竹中陣屋跡11


後から。
竹中陣屋跡37


銅像の台座にも解説板があるが、これは駐車場のものと同じ。
竹中陣屋跡5 竹中陣屋跡6

「櫓門」前にある石碑「岐阜県史跡 竹中氏陣屋跡」。

竹中陣屋跡8


門横に竹中半兵衛の解説板。

ここは、半兵衛と直接は関係無い筈なのにね。

重門が可哀想だ。(笑)
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 竹中半兵衛重治(解説板)

     (一五四四年~一五七九年)

 重治公はこの地の菩提山城を

本拠とし、智謀神の如しといわれ

た名軍師で、木下藤吉郎に三顧の

礼をもって迎えられた。信長に仕

え、秀吉の懐刀となり、形影相伴っ

て各地を転戦し、知恵袋として活

躍した無欲の武将であった。播州

三木城攻略中惜しくも三十六才の

若さで陣没した。墓はここより

北五百mの禅幢寺にある。

                垂井町



「櫓門」を内側から。
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「門扉」や「石垣」もしっかりしている。
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陣屋内に入ると直ぐ北側に「稲荷神社」が鎮座していた。

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祠と石垣の間。

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門を入ると直ぐ正面に馬隠しの「石垣跡」があり、

その左右には立ち入り禁止の看板が建つ。

正直、この先を確認したい。(汗)

この辺りは、解説板の古図とは若干異なる気がする。

後世に改変されたのだろうか?
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竹中陣屋跡21


北側と西側を諦め、南側へ。
竹中陣屋跡22


立派な「石垣」が南へと続いているが、

ここは小学校の敷地内なので、ここまで。
竹中陣屋跡23


如何やら、「石垣」の上に登れる様だ。
竹中陣屋跡25 竹中陣屋跡26


下から見ていた時はそうでもなかったが、

実際登ってみると高さを感じる。

手すりも無く、更にこの日は西風も強い。

少々危険を感じた。(汗)

竹中陣屋跡29


「堀跡」の様子。
思った以上にいい感じ。(笑)
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「石垣」から見た小学校の校庭。

昔は、ここに陣屋の建物等があったのだろう。

竹中陣屋跡28


「石垣」は、外側は上部まで組まれているが、

内側は途中までしか組まれていない。

これは、経費削減のためか。
竹中陣屋跡30

「石垣」の南端から見た「櫓門」方向。
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「石垣」上から見た「櫓門」。
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瓦には、竹中家の家紋「九枚笹」。
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内部を堪能したので、今度はまだ見ていない南側の「堀跡」へ。

土の城とは違った趣があり、これはこれで良い。(笑)
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「堀跡」越に見た「櫓門」。
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西側から見た陣屋跡。

現在、私有地になっている場所には、木々が生い茂っている。

「空堀跡」や「土塁跡」が残っていそうな雰囲気。

竹中陣屋跡63 竹中陣屋跡64


この遺構を、「たったこれだけ?」と思うか、

「よくぞ残してくれた!」と思うかは、人それぞれだが、

これからも大切に残して行ってもらいたい。

もし可能であれば、北側の雑木林部分の遺構も

開放していただけると有り難いのだが。

まあ、無理だよね。(笑)