訪問日 平成27年 2月14日
「新加納陣屋跡」の周辺は、「新加納宿」となっている。
関ヶ原の戦いで功績を挙げた坪内利定は、
美濃国羽栗郡、各務郡20村、6,500石を治める大身旗本となり、
拠点を川島の「松倉城」から美濃国各務郡新加納村
(現・岐阜県各務原市那加新加納町)に移し、「新加納陣屋」を築く。
その後、中山道六十九次の鵜沼宿と加納宿間が、
4里10町(約17km)と他に比べて距離が開き過ぎたこともあり、
「新加納陣屋」周辺が間の宿として発展し形成されたのが、
「新加納宿」とのこと。
宿の入り口は枡形が設けられ、
小規模ながら宿場の形を形成していた。
集落の西端にある石碑「中山道 間の宿 新加納」。
恐らく、この辺りが各務原台地の西端部なのだろう。
集落の東側に向かって、やや上り坂になっている。
集落の中心付近に「一里塚跡」や解説板がある。
現在、旧中山道には、交通がしやすいように、
北側にバイパスが造られているが、元々の旧中山道は、
このまま中央の建物の左側へ直進し、突き当りを右に曲がり、
「日吉の蛙」。
この集落にある「日吉神社」に関連する「蛙」がシンボルになっている。
この蛙は、道標の上にもいたりする。
解説板「中山道間の宿 新加納のご案内」。
「新加納陣屋(旗本坪内陣屋)」のチャンとした解説は、ここくらい。
旧中山道を直進すると突き当たる。
突き当りには、御典医だった今尾家の屋敷がある。
「今尾医院」の北隣の家の塀には、
解説板「中山道新加納立場」がある。
中山道新加納立場(解説板)
各務原市那加新加納町
慶長五年(一六〇〇年)関ヶ原の戦いに勝利を収めた徳川家康は、
全国的な封建支配体制の確立を目指し、
主要な街道整備事業を行った。
中山道は東海道の裏街道として京都と江戸を結ぶ幹線道路となり、
全長百三十四里(約五三六㎞)の間に六十七の宿場が設けられた。
各務原市内には鵜沼宿が置かれていたが、鵜沼宿と加納宿の間は
四里十町(約一七㎞)と距離が長いため立場(たてば)(建場茶屋)と
呼ばれる小休所が、ここ新加納に設けられていた。
皇女和宮の降嫁の際にも休息所とされた新加納は、
正規の宿場ではないとは言え、長すぎる鵜沼宿と加納宿の、
ちょうど中間に位置することや、小規模ながらも旗本・坪内氏の
城下町な意義を持つことなどからも、
中山道の「間の宿」として栄えていたのである。
平成二十五年度
新加納まちづくり会
この「今尾医院」だが、「少林寺」の「参道」東に位置する。
素晴らしい建物だと思っていたら、
「門」や「黒板塀」、塀の瓦の上にある「七福神」等、
実に趣のある素敵な建物だ。
色々と手入れ等が大変なんだろうが、是非後世に残してもらいたい。
「今尾醫院」の道を挟んですぐ南に建つ「薬師堂」。
今回の訪問では、近くにある「日吉神社」を見落とした。
ここには、「狛犬」ならぬ「狛蛙」があるとか。
興味をそそられますねぇ。(笑)