訪問日 平成26年 9月 4日
今回訪れたのは、高山市にある「飯山城跡」。
現在、館址が「東向山 飯山寺」になっている。
国道41号線を千島町へ進み、西側にこの石碑を探す。
車一台が何とか通ることができる小道を登る。
途中から未舗装。
途中、何度もUターンできるのか不安になった。(汗)
そろそろと進むこと1分少々。
道端に、小さな祠を発見。
更に奥へと進むと、畑が。
高山に住む知り合いが、
ここのことを”年配者が軽トラで行くところ。”
駐車スペースもあり、Uターンもできる。
一安心。(笑)
東向山 飯山寺(解説板)
寺歴は古く、暦応二年の草創(飛州志)文安二年中興する。本尊は行基菩薩の作と伝わる十一面観音像で、飛騨国内七観音の随一である。開山、歴代の住持はわからないが、天正年中は律師善行、慶長年中に法印伴仲の名が見える。
大守の命により、真言の行者善行が当山荒廃の地を開き、寺院を再興したという。また一説には、天正年中玄海法印が一宮拝殿を建立したが、後これをもらい受け、宮川を筏で流してここへ運び観音堂を建てたという。
境内には市文化財の観音堂、弁財天社がある。また、飯山城が永禄年中(一五五八~一五五九)まであったが、三木に亡ぼされて以後廃城となった。遺構は不明で、この辺りは館址であったという。
飯山寺保存会
高山市教育委員会
敷地は、道より50㎝程高く、
「観音堂」。
解説板はあるが、文字のかすれと建物保護用の網で、よく読めない。
「観音堂」の裏手にあった井戸。
飲めそうな雰囲気だったが、大事を取って飲まず。
「弁天社」。

飯山寺弁天社(解説板)
高山市指定 昭和四十五年十月一日
構造 一間社流造 桁行〇.九一メートル 梁間〇.六八メートル
東向山飯山寺の鎮守社としてまつられたというから弁天社の草創は古い。現在の社殿が建てられた年代については伝えられるものがないが、向拝中央にある蟇股の形式や、頭貫端の天竺様の木鼻妻の太平朿の様式から一七世紀中ごろの作と考えられる。
清洌な水をたたえた池畔に建ち、流れ造の一般的な本殿形式の小祠であるが、市内のこの種の建物では最古の作風をもち、形態も優美である。
昭和五十三年八月
石碑「飛騨最後の武士切腹の場所」。
裏には、
「明治五年二月没
権小属 住 為右エ門 四十七才」とある。
遺構等は、確認できなかったが、
良い雰囲気の城跡だった。
訪問する際は、為るべく車高の高い車がお勧め。(笑)