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この年の瀬になんとなく思った。
昨年6月、一番古い男友達Mがこの世を去った
お酒の飲みすぎで肝硬変、入退院を数回繰り返し、それでもやめられなかったから
Mはダメダメだったけれど、とても人に好かれ、何となく常に目立つポジションにいた人。
とても友人も多かった。
そんなMの葬儀は、発見まで少し時間が空いてしまったこと、コロナ禍、ということで家族葬。
みんなその顔を見ることなく、お別れとなってしまった。
※大丹波のイルミネーション。
Mは、これまた私の一番古い女友達と結婚していた時期がある。
なので、M本人と会わなくても、たまにその女友達からMの情報を聞く。
その時が遠くはないんだろうなぁ…
と思っていた。
夏の日、運転中にその女友達から着信があった。
昔から彼女とは電話で話したりもしないし、LINEとかも要件だけ。
その彼女から着信、すぐに察しがついた。
※これは五日市。
動揺はしたものの、何となく後回しにした。
危機回避の本能だろうか、何となく流していった。
そして今も
一度だけ夢を見たけれど、その夢でも残された側の気持ちでMのことを思っていた。
それでも去年の夏から、一度もきちんと向き合わず流し続けている。
何かが来た時に、まさに左へ受け流すのだ
年を重ねていくと強くなる部分もあるけれど、弱くなったところもある。
だから、誰かに迷惑をかけないことなら、
わざわざ現実と向き合わなくても、いいじゃないか
実感なんてしないでいいじゃないか
だけど、これが一緒に暮らした動物たちの場合、そうはいかない。
現実に目の前からいなくなってしまうからだ。
魂はそばにいる。
わかっていても、その愛らしい姿・声・体温・重さ、全てを感じられなくなってしまう
この場合は、受け止めざるを得ない
きちん消化して、そして、立ち上がっていかなければならない
【ペット】という簡単な言葉では、済まないことだ。
そしてもちろん動物たちだけではなく、家族など近しい存在の場合はそうだろう。
生きていると、どうしても見送る立場になる
そして長く生きていれば、その回数も増える
だけど、それはみんな同じ。
だからこそ気持ちがわかるし、
頑張れとか
無理するな
とか思う。
※これは遊園地。
若者たちが社会に出て、理不尽な現実などと向きあう。
それでも何とか頑張る。
それはこれから生きていく上で必要なこと、というのはわかるけれど、それでも
どうか傷つかないで
と思ってしまう。
何かあったら助けを求めることさえできればいいんだから、とつい思うのだ。
逃げたっていいじゃないか
きっと甘い考えなんだろうなぁ
いざという時、苦しむのは本人だもの。
※これも遊園地。
クリスマスのイルミネーションをしていた近隣のお宅から灯りが消え、寂しい
けれど、寒波でピリッとした空気の中の夕暮れは何と美しいことか
何か答えが出たわけでもないし、だから何だ、という感じだけど、こんなことをツラツラと思うようになるなんて、思ってもみなかったな
ボンヤリした内容、最後までお読みいただき、ありがとうございました
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