1年以上更新してなかったけど、まだ見てくれてる人いるのかな。。。

 

 

 

昨年4月に父が亡くなり、そのこと書こうとすると、

泣いて泣いて、結局書ききれないまま月日が過ぎてしまいました。

 

 

 

父の闘病生活とコロナ禍がまるまる被って、約3年間の間、

私は感染症を家に持ち帰らないために仕事も辞め、

病院と買物以外どこへも遊びに行かず、友人にも会わない生活。

 

父がもうすぐ死んでしまうという焦燥感。

 

生きてる者はいつかは必ず死ぬし、病気やし、寿命やし。って、

頭ではわかってても、なかなか平穏な気持ちでは過ごせず、

愛鳥たちを撫でて、吸って、このブログを書くことが現実逃避と気分転換でした。

 

 

心の準備をする時間が長くあったにも関わらず、父のことが大好きだった私には

悲しすぎて、苦しすぎた。

 

世界でいちばん私のことを大事にしてくれた存在がこの世からいなくなってしまった。

喪失感が半端なかった。

 

物心つく前から、父は

 

「山ばっかり行く人」

 

「ビールがめっちゃ好きな人」 だった。

 

山とビール。

 

それは父の人生そのもの。

 

 

幼稚園とか小学校低学年くらいの頃になって、

「私のお父さんは友達のお父さんたちとはなんかちょっとちゃうなぁ。」と感じるようになった。

 

休みの日に家でゴロゴロしてたりしない。

っていうか、はっきり言って家に全然いなかった。休みの日はいつも山。

私と弟をどこかに連れて行ってくれるとしても、いつも山。

 

私のまわりには、1ドルが350円以上だったあの時代に、

何ヶ月もヒマラヤに山を登りに行くようなお父さんはいなかった。

(当時何回かネパールの父から手紙が届いて、私も覚えたてのひらがなで返事書いた覚えがあるんやけど、今にして思えばいったいどこ宛てに送ってたんやろ・・・?私書箱?)

 

父が亡くなってから、アルバムで写真を探してたとき、

私が生まれた次の日にも、もう山に行ってたので笑ってしまった。

 

仕事も変則勤務で泊まりもあったけど、

早く帰ってくる日には毎回私と弟にお土産を買ってきてくれた。

仕事行って帰ってくるだけやのに、

毎回お土産買ってくるなんて甘やかしすぎちゃうんかと思うけど、

父はとにかく家族を喜ばすのが好きな人だった。

 

山の帰りもいつもお土産買ってきてくれたから、

木彫りの雷鳥とかいっぱい持ってたな。

 

家族の誕生日や母との結婚記念日も

一度も忘れることなくプレゼントを欠かさない人やった。

 

闘病生活が始まって、毎週私と一緒に病院に行くようになっても、

病院の帰りに自分は食べれないのに、私と母にとお寿司やケーキを買ってくれた。

 

入院中も荷物を届けたら、

帰りにお母さんにお花見弁当を買ってあげてと電話してきたり。。。

 

優しかったなぁ。。。

お父さんが死んでしまってから、お寿司食べる機会めっちゃ減ってしもたわ。

 

父がなくなるまでの3年ほど、毎回ふたりで一緒に病院に通った。

大学病院と地元の総合病院。

 

よくよく考えたら、家族旅行などで家族みんなで出かけることはあったけど、

父と私、ふたりだけで出かけるのって、弟が生まれたときくらいしかなかったんちゃうかなぁ。

 

父も私も無口なので、

病院行くときも、着いてからも、帰るときも、お互いほとんどなんにも喋らんかったけど、

この歳になってはじめて、ふたりだけで行動してなんかうれしかった。

 

 

最後の最期は、

医師の勧めと本人の希望(本人は家族に気を使ってかなり迷ってたけど)もあり、

自宅で看取りました。

 

私への最期のことばは、亡くなる数時間前に、

「幸せになりや」って、ニッコリ笑って言ってくれました。

 

私はお父さんの娘に生まれてこれただけでじゅうぶん幸せです。

 

父は「人生に思い残すことはない。楽しい人生やった。」って。

そらそやろ。あれだけ山行きまくって、好きなだけビール飲んで。

 

登山家の心得として、「山屋は山で死ぬべからず。畳の上で死ぬべし。」って言ってたし、

人生を思い残すことなく楽しみ、畳の上で死ねた父の人生は素晴らしき哉。

 

本人が満足して死んで行ったのに、

残された私や母がいつまでもクヨクヨ泣いててどうするんって思うけど。

でもやっぱりさみしいねん。

 

1年前のあのエグられるような悲しみから、しみじみとさみしい。

 

死んだ人にはもう二度と会えへんってわかりきってるねんけど、

なんか亡くなった当初は、まだ父は山で遠征行ってるだけで、

またでっかいリュック背負ってひょっこり帰ってくるような気がしててんけど、

ほんまにもう会われへんねんなって実感してきてる。

 

私の誕生日には世界中のどこにいても手紙なりメールなりでもくれたから

あの世からでもテレパシーででもメッセージ送ってきてくれるかと思ったけど、

さすがに無理やったみたいやな・・・

 

 

かっこいい父でした。

 

コロナ禍前まではずっと体も鍛え続けてたし、病気になってなかったら、

100才なってもロッククライミングしてたんちゃうかな。

 

やりたいことは、やりたいと思ったときにやっておけ、

行きたいとこがあれば、多少無理してでも行けるうちに行っておけ、

食べたいものは美味しく食べれるうちに食べておけ、

 

好きなことをとことん楽しめ!という生き方を教えてくれた父でした。

 

 

 

私は父の四十九日が過ぎてから、

ぼちぼちと人と会ったり、出かけたりするようになりましたが、

はじめのうちはあまりに引きこもり期間が長くて、人混みに酔ってしまったり

出かけたあとは疲れすぎて数日寝込むなど、人としてかなり衰退してました。

 

今は数年分の時間を取り戻さんばかりに、あちこち旅行も楽しめるようになってきました。

いまだ人が多い都心部は苦手やけど。

 

今でも思い出しては泣くことも多々あるけど、1周忌も過ぎたし、前向きに。

 

また鳥さんたちのこととか、あちこち出かけたこととか、

この1年悲しいこともあったけど、楽しい出来事もいっぱいあったし、

いろいろ書いていけたらいいなと思ってます。

 

 

 

若かりし頃の父と母。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鳥さんたちはちょいちょいいろいろあったけど、みんな元気です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これからもどうぞよろしく。